緑莢かに夏来たる



 夏も近付く六月のある日、まだ生徒もまばらな朝の学園近くの道を、怪士丸は一人歩いていた。
 数日前までは梅雨によるはっきりしない天気と身にまとわりつくような湿気に辟易していたのだがここ二、三日は照りつける太陽と照り返しに悩まされている。自分はそれほど暑さに強い方ではないので、夏は毎日が辛い季節であった。
 六月末でこの暑さだったら、七月、八月はさらにひどい暑さが日本全体を覆うのだろう。それを思うと、思わずため息が出る。


 大川学園高等部の建物が塀の向こうに見えてきた。最寄りの駅から徒歩五分の位置にあるその建物は、駅の方角から見ると森の中に建っているようにも見える。
 背の高い木々が囲む高等部校舎は、中にいると確かに暑く感じるのだが、駅周辺や自宅周辺よりは涼しく感じる。ひとえに、周りを取り囲む木々のおかげなのだろう。
 地理的な理由もあるのかもしれないが、多少なりとも涼しく過ごせるのは嬉しいことだ。じりじりとアスファルトを焦がし始めた太陽から逃れようと、怪士丸は足を早めた。

 校門をくぐると、そこはロータリーとなっている。右手に学年ごとの行事に使われる小規模の学生会館の白い建物が、左手に年代を感じさせる小体育館が建ち、ロータリーを挟んで正面の奥に高等部の校舎がある。
 二・三年棟とも呼ばれるその建物の一階は理事長室、職員室と二、三の研究室があるのみで教室はない。普段ならば生徒たちには用事のない階であるが、その校舎一階右端の辺りに、彼は誰かがいるのを発見した。
 生徒玄関に向かっていた足を止め、視界に引っかかったその姿を求めて首を巡らせれば、校舎と学生会館を繋ぐ道をその人が歩いているところであった。

「…あれは…」

 朝の光に眩しい半袖のYシャツに学園指定のプリーツスカートを颯爽と風に揺らし、何かを胸の辺りに持って歩いていたのは、高等部三年三組の猪名寺乱であった。
 彼女は、学生会館から校舎の方へと歩みを進めていた。そのまま校舎の中に入るのかと思った怪士丸は、彼女がガラス戸ではなく、ある部屋の窓辺に近寄ったのを見て、合点がいった。
 そして、「あれ」の様子はどうだろうかと、玄関に向けていた足を彼女のいる方へと向けた。





「…おはよう、乱ちゃん」
「わあっ!あ、怪士丸!おはよう!」

 さわさわと木々の葉が鳴る校舎の端、保健室の窓辺でなにやら作業をしていた乱の背中に、怪士丸は声をかけた。特に気配を絶っていたわけではないのだが、よっぽど作業に集中していたのだろう。びくっと肩を揺らした乱は、慌てた顔で怪士丸の方を振り返った。
 自分だけでなくほとんどの人間が、彼女に後ろから声をかけると同様のリアクションを得ることを知っているのだが、何度見ても苦笑いが起こってしまう。まあ、彼女が自分を認めるとすぐに見せてくれる笑顔があるから、それほど気にはしていないけれど。
 乱の手にある空色をしたじょうろを見て、やっぱりね、と怪士丸は思わず呟いた。聞こえないだろうと思ったのだが、彼女はしっかりと怪士丸の発言を拾っていたらしい。ことんと首を傾げて不思議そうに問うてくる。

「やっぱり?なにが?」
「あ…聞こえた…?」
「うん、当たり前じゃない。こんなに近くにいるんだもの」

 あっ、地獄耳じゃないからね、と笑う乱に、怪士丸は頬が緩むのを止められなかった。自分と同じ委員会に所属している中等部の後輩ほどではないのだが、自分はどうも聞き取りづらい声をしているらしい。意識してはっきり話さなければ、十中八九とまではいかなくとも、結構な確率で聞き返されることがある。
 しかし、なぜか乱だけは違った。いつもきちんと発言を拾ってくれる。意識して声を大きくしようとしたとき、無理をしなくていいよと言ってくれた。彼女は、目が悪い分耳が良いんだと冗談めかして言うのだけれど、怪士丸は、些細なことかもしれないけれど、それが嬉しかった。彼女の大好きな部分のひとつでもある。

「怪士丸ー?どうしたの?具合悪い?」
「いや、なんでもない。…大丈夫だよ」
「そう?今日も暑くなるらしいから気をつけないとね」
「うん。…だいぶ、大きくなったね」

 心配してくれるのまっすぐな目がくすぐったくて、怪士丸は乱の前に並んでいる「それ」に目を移した。
 保健室の窓辺にいくつも並んだそれは、朝顔のプランターだ。そのプランターの縁から保健室のガラス窓の上部へと網が張られていて、朝顔の蔓がその網に添って伸びている。
 今はまだ短いが、七月の半ばになれば朝顔の蔓や葉が窓辺を覆うように成長するだろう。そう、これは「緑のカーテン」だ。
 保健室のあるこの棟は、陰となる建物が近くにないので夏場は窓から日光が溢れ込んでくる。ベッドはカーテンで囲まれているので直接日光に悩まされることはないが、熱中症が増えるこの時期、少しでも保健室を涼しく保ちたい、何かいい方法はないだろうかと悩む保健副委員長の友人に、この緑のカーテンを勧めたのは誰でもない、怪士丸であった。
 怪士丸が委員長をつとめる図書委員会は、その活動の一環として毎年図書館の窓辺に緑のカーテンを作っている。クーラーのない図書館を夏場でも利用してもらおうと始められた活動なのだが、この緑のカーテンが思ったよりも涼しさを運んできてくれることを知った。そんなに費用もかからないし、手軽だからと勧めてみたのだが。
 おそらく、図書館にも緑のカーテンがあって、それを怪士丸が伏木蔵に勧めたということも乱は知らないだろうけれども、ちょっとした繋がりができたのはこっそり嬉しい。


「でしょう?芽が出るのが遅かったからちょっと焦ってたんだけど、この調子なら夏休み前にはカーテンになってくれそう」
「そうだね…」
「そういえば、図書館の方はどう?今年もやってるんでしょう?」
「…え?」

 乱の言葉に、怪士丸は止まった。きょとんと見上げてくる乱は、図書館も毎年緑のカーテンをやってるでしょう?と続けた。

「あれ?去年も一昨年も怪士丸が水やりしてるとこ見かけたから今年もてっきりそうだと思ったんだけど…違った?」
「い、いや、違わない、違わないよ。今年もやってる、水やりは長次が率先してやってくれてて」
「ああ、そうなんだー」

 あの子真面目で良い子だよねと乱は笑う。しかし怪士丸は乱が言った「去年も一昨年も」の台詞に動揺するばかりだった。
 高等部一年棟の東の端、ひっそりと建つ図書館で作業しているのを見かけるなんて、どう考えても「見よう」としなければ見れないと、でもまさかそんなと思う怪士丸はこのとき想像もしなかった。

 夏休み、彼女と一緒に水やりに通うことになるなんて、六月の末までは本当に、想像もしなかった。


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 緑のカーテンは、朝顔やゴーヤなどの蔓植物を網に絡ませてカーテンみたくするやつです。植物の蒸散による気化熱を利用して建物の温度上昇を抑えるのと、遮光や植物の鑑賞も目的に入るんだとか。
 今回はどちらも朝顔なんですが、図書館の方はゴーヤが良い!と某ドケチの子は言ってそうです。涼しいし日光遮れるし秋になったらゴーヤ収穫できるしで一石三鳥!とか言い出しそうで(笑)
 最近ろ組がかわいいです。好きだ!

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