雨粒、タルトに甘い歌を
さらさらと雨が降っている。窓の向こうは梅雨の街だ。
ランチタイムを過ぎたカフェ・トワイライトの中は、音量の絞られたジャズが流れる以外に音はない。普段ならば、ディナーには早すぎるこの時間でも客がいないことはないのだが、その日は珍しく閑古鳥が鳴いていた。それほど広くはない店内に響く明るい調子の歌が、かえって寂しさを助長している。
ガラス一枚隔てた向こう側は、色とりどりの傘の群で賑わっているというのに。
薄闇が少しずつ覆っていく街の姿をカウンターの向こうから眺めながら、彼はコーヒーを啜っていた。普段はカウンターの端に隠してあるスツールを引っ張り出し、そこに腰掛けている。
今は営業時間中であるから、店で出しているコーヒーを手にぼんやりしていることが上司にばれたら大目玉だ。しかし、店長代理はランチタイムの終わり頃にふらっとどこかへ行ってしまったし、厨房を預かる男は今買い出しに出ている。何より、予感があった。この調子では客はないだろう、と。
止まない雨に対する憂鬱と午前中の疲れもあって、彼はちょっとした休息時間を取っているのであった。というか取らなければやっていられない。
午前中、来店した近所の奥様方と話し込み、その客が帰った後は後で今日はあの子は来てくれるだろうか云々とぐだぐだ話しかけてくる店長代理のにやけた顔を思い出して彼、高坂は深い深いため息を落とした。
雨足が強くなってきた。蛇口を勢いよく開いたときのようなシャワー状の雨が窓の外をぼんやり煙らせる。鮮やかな傘の群も水の向こうにかろうじてその色を残すだけで、ほとんどが灰色の街の向こうへ消えていく。
三十分ほど前に店を出た同僚のことを思い出す。彼は確か傘を持って出ていったから、心配することもないだろう。店長代理の顔も頭を掠めたが、あの人はちゃっかりしているから心配するだけ無駄だ。
再び午前中のことを思い出してしまい、軽い苛立ちを感じた高坂は気分を変えようと立ち上がった。
カウンターの端に置かれたレコードプレイヤーの前に立ち、それを止める。回っていたレコードをジャケットに収め、背後の食器棚の横にあるレコードの棚へと仕舞った。
五・六席しかないカウンター席のこちら側、グラスやカップ、皿などが並ぶ棚に並べられたその棚は、棚全体の三分の一ほどのスペースを占めていて、隙間無く並べられたレコードとCDはある種、圧巻だ。
店長や店長代理の趣味がよく現れているラインナップではあるが、その中には高坂や今日は休みを取っている青年の趣味で置かれているものもある。明らかに十代の青年が選びそうなCDを横目に、高坂は一枚のCDを選び出した。菓子を題名の一部に持つ曲を集めたもので、24の男が聞くには可愛らしすぎるかもしれない。しかし、そのCDは彼のお気に入りであった。
棚の二段目に設置されているCDプレイヤーにそのCDを読み込ませ、ケースをその横に立てかける。音量を調節し、元いた場所へ戻ろうとした高坂は、「それ」を見つけた。
三つ並んだ両開きの窓、その一番左端の窓の向こうに誰かがいる。店の方に背を向け、どうやら雨宿りをしているらしいその後ろ姿に高坂は見覚えがあった。窓枠と壁に半分以上隠れているが、夏服のセーラー服と華奢で小柄な、しかし女性らしさを少しずつ得てきていることが感じられる稜線、そして何よりも、その茜色の髪。見違えるはずはない、それはあの少女だった。
高坂はカウンターを出ると、窓辺にあるテーブル席へと歩を進めた。高坂が近付いても彼女はこちらに気付く様子はなかった。当然だ、窓の外は土砂降りに近いのだから。
苦笑しつつ高坂は窓を開いた。いきなりのことに彼女は驚いて目を丸くしていたが、高坂は彼女以上に驚いた。
「乱、お前、その格好はどうしたんだ…!?」
「あ、高坂さんこんにちはー。えっと、これはですね…」
苦笑いしながら制服のスカートをつまみ上げてみせた彼女、善法寺乱は、全身ずぶぬれの状態でそこに立っていた。普段はふわふわと風に揺れている茜色の髪は額や頬に張り付き、その毛先からはぱたぱたと水滴がひっきりなしに落ちていく。制服の袖口やスカートの裾も似たような状態で、丸眼鏡だけは水滴を拭き取ったのか濡れてはいなかったが、少し曇りが残っていた。
「実は、朝さしていった傘を盗まれちゃったらしくて。仕方がないので走って帰ろうと思ったんですが…思いの外雨が激しかったもので…」
「誰か友達の傘に入れてもらうわけにはいかなかったのか?」
「はい、それも考えたんですけど…みんな用事があって一緒に帰れなくて…兄ちゃんたちはまだ授業があるから頼めなくて」
そこまで言った乱は、何かに気付いたかのように目を見張った。そして勢いよく頭を下げる。ぱたた、と滴が散った。
「すみません、勝手に軒先お借りしちゃって!すぐに帰りますから!」
言うが早いか再び雨の街へ帰ろうとする乱の手を、高坂は慌てて捕まえる。その冷たさに思わず顔が歪んだ。
「あ、あの…高坂さん…?」
「こんなに体を冷たくしたままで帰ったら風邪をひくだろう。雨宿りのことは気にしなくていいから、中に入れ。タオルと、何か温かいものを出してやるから」
「え、でも私、今日あんまりお金持ってなくて…」
ああ、だから店内に入らず軒下を借りるだけに留まっていたのか。大丈夫です、と言い張る乱に、良いから体を温めていけと高坂は言った。
夏服仕様の薄い生地の向こうに見える鮮やかな水玉模様に、なるべく目をやらないようにしながら。
乱が店の入り口に回る間に、バックヤードのロッカーからタオルを取り出す。少々雑な畳まれ方をしていたそれを、なんとなく畳み直しながらカウンターに戻ると、ちりん、と軽やかな音が店内に響いた。
おずおずと遠慮がちに歩を進める乱に近寄り、タオルを渡すと、邪魔になるであろう鞄を預かる。高坂はカウンターの端の席に鞄を置くと、カウンターの中へとって返す。
カップを棚から取り出しながら、もそもそと髪を拭いている乱に声を投げた。
「乱、いつもので良いか?」
「えっ、あ、はいっ。お願いします」
「分かった。…ああ、使った後のタオルは背もたれにでも掛けておいてくれ。後で洗濯させるから」
「私、家で洗ってきますよ?」
「気にしなくて良い。それもあいつの仕事だからな」
「あいつって…もしかして、諸泉さんですか?そういえば、今日はいらっしゃらないんですか?雑渡さんも…」
「尊奈門は今日非番だ。店長代理はその内に帰ってくるだろう」
「もしかして、おさぼり中ですか?雑渡さん」
「平たく言うとな。この状況を予測していたに違いない」
そう言って苦笑しながら閑古鳥の鳴く店内を視線で示してみせれば、乱も困ったように笑いながら、雑渡さんらしいですねとカウンター席にちょこんと座った。
乱の前にミルク多めのカフェオレと、苺のタルトを並べて出す。すると、高坂の予想通り乱は目をまん丸に見開いた。
「あの、高坂さん…私、ほんとにお金持ってなくて…」
「それはさっきも聞いた。それもサービスだから気にするな」
「い、良いんですか?本当に?」
上目遣いにこちらを窺うその緑色の目の中に、遠慮しなければという気持ちと抗い難いタルトへの欲求が見て取れて、高坂は思わず笑ってしまう。乱がほぼ毎回と言っても良いほど頻繁に注文する苺のタルトを出せば、こんな表情が返ってくるだろうとは思っていたが、予想以上に可愛らしい反応が返ってきた。遠慮と欲求の間で葛藤する姿ががたまらなく愛しく思える。
喜怒哀楽がはっきりしていて、いつも屈託ない表情を見せてくれるこの少女を前々から好ましく思っていたのだけれど、こうして改めて目の前で見ると、思わず頭を撫でてやりたくなるような、そんな気分になる。
「この調子だとケーキが余ってしまう。むしろ食べてもらった方がありがたいんだ。余ったときは皆で分けることもあるが、ケーキ類は誰も持ち帰ろうとしないからな」
「そ、そうなんですか?」
「男ばかりだから仕方ない。だから気にせず食べてくれ。もし気になるなら…」
「なら?」
「高校生になって、うちでバイトを始めたときに頑張ってくれれば良い」
一瞬、きょとんと目を丸くした乱は、すぐに、はい!と気持ちの良い声を上げた。ケーキ皿に添えられたフォークを手に、きらきらと目を輝かせる乱の笑顔を、コーヒーを啜りながら眺める。
スピーカーから流れる甘い歌とケーキの甘い匂い、そして乱の甘い笑顔。雨ももうすぐ止むだろう。
明るい茜色が覗く窓の向こう、カフェ・トワイライトに黄昏がやってくる。
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相互記念にヤソイチさんに捧げます、高坂乱♀でした。ヤソイチさん宅の現代パラレル(三重苦)の設定をお借りいたのですが、いやー、実に楽しかったです!
実はこのとき学校帰りの伊作兄ちゃんとサボリから帰ってきた雑渡さんが入り口のドアから高坂さんを睨み付けているというサイドストーリーもあったんですが、削っちゃいました☆兄ちゃんのターンはないよ!
ヤソイチさんに少しでも楽しんでいただけましたら幸いです。相互、本当にありがとうございましたー!!^^
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