英語教師・伊賀崎孫兵の段



 窓の外でシャワーのような雨が降る、ある日の午後のことであった。気象庁が全国の梅雨入りを宣言したのは先週のことで、約ひと月後に迫った夏の気配を感じる蒸し暑さの中で生徒たちは授業を受けていた。

 ただでさえ午後の授業は昼食の後とあって眠くなるものなのに、加えて連日の湿気地獄である。せっかく五月病が完治してくる時期だというのに、これでは五月の方がまだマシだったかもしれないと、庄左ヱ門は一番後ろの席から教室を見渡した。
 廊下に近い席で船を漕ぐ者、完全に机に突っ伏して眠りこけている者、居眠りはしていないが頬杖をついてぼんやり中空を見つめている者、内職、つまり次の時間の数学の予習をする者、内職、つまり造花の組み立てをする者。
 他にも板書を移す手は動いているけれども、そのノートには確実にミミズがのたうち回っていそうな者など、様々であった。もちろん、真面目に授業を受けている者もいるのだけれども。


 多分そろそろ雷が落ちるだろうなと、庄左ヱ門は教壇に立つ教師に目を向けた。教科書を片手に環境破壊の話を淀みなく読み上げてる英語教師、名を伊賀崎孫兵という。
 しっかり第一ボタンまで閉められた白いワイシャツに、洒落たネクタイを合わせ、ひとつも皺が見受けられないスラックスを着こなすその姿は、女子生徒曰く「格好良い」のだそうだ。
 二十代後半に入ったばかりだという彼は、確かに身体に余計な脂肪も付いていないし、服装の趣味が崩壊しているわけでもない。きりりとした目が印象的で、男から見てもまあ男前な顔をしていれば女子が騒ぐのも当然かもしれないと庄左ヱ門は冷静に分析する。

 でもなあ、と庄左ヱ門が否定の言葉を心の中で唱えたとき、孫兵が教科書から顔を上げた。ゆっくり引き上げられたその顔は、誰がどう見ても、はっきりと怒っていた。
 ああ、来るな。次の瞬間、教室内に雷が落ちる。

「寝ている奴、いい加減にしろ!内職している奴もだ、今は英語の時間だろう!それときり丸、お前は授業にバイトを持ち込むのはやめろと何度言ったら理解するんだ!」

 孫兵の怒号に、停滞していた教室の空気を切り裂く稲妻に似た緊張感が走った。それに慌てて飛び起きた友人の口の端に涎を見つけてしまい、庄左ヱ門はやれやれとため息をついた。
 授業時間は残り三十分を切っている。





 電子音のチャイムが校舎内に響きわたる。授業終了の合図だ。
 宿題と次時の範囲の指定をした孫兵が授業の終わりを宣言する。週番が号令をかけると、教室内が一気にざわめき出した。
 授業中に騒いで教師の邪魔をする生徒はこのクラスだけではなく、学校全体を探してもいないのだが、あんなに眠そうにしていたクラスメートたちが、授業が終わった瞬間に元気に騒ぎ始めるのを見ると、教師でもないのに苦笑しそうになる。
 次の時間の準備をしておこうと、英語のノートと教科書を鞄にしまいかける庄左ヱ門に声がかかる。そちらに目をると、左隣の席で伊助が眉間に皺を寄せていた。

「庄左ヱ門、ちょっと良いか?」
「うん?」
「さっきの例文なんだけどさ」

 またか、庄左ヱ門は思った。それは何も、英語が苦手な伊助に向かっての感想ではない。例文を作った孫兵へのものである。

 女子生徒に絶大な人気を誇る、英語科のホープ伊賀崎孫兵先生には、ひとつ困った癖があった。授業の進め方も発音も教科書内容の説明も、問題はない。問題は、文法事項を説明するときに起こるのである。

「なあ、つまりジュンコとジュンイチは何がどうなったんだ?」
「あー…それは…ここのthat節が…」

 例文に並んだ、高校で習うには専門的すぎる単語に注釈を加えつつ、庄左ヱ門は説明をしていく。
 こんな単語、大学の生物学部や獣医学部に進まない限りは必要ない単語だと思うのだが、あの先生は好んで使いたがるのだ。
 これは余談であるが、爬虫類や昆虫のことにとんでもなく詳しい先生が、どうして英語の先生をやっているのかはこの学園の七不思議のひとつだと言われている。庄左ヱ門はその答えにそれほど興味はないけれども。
 孫兵先生が文法のクラスの担任じゃなくて良かったと、高等部に入学して一週間ほど経った時に心の底から安心したのはここだけの話である。

 一通り説明を終えると、伊助は眉間に刻んでいた皺をようやく解いた。表情も明るくなる。

「なるほど、そういうことか」
「そう、そういうこと」
「やっと理解できたー。viperだのfrogとtoadの違いは分かるようになったけど、今日のはいつもに増して意味不明でさー」
「ははは…」

 ありがとうと礼を言ってくる伊助に苦笑を返していると、視界の端を鮮やかな茜色が通り過ぎていった。
 その茜色は教室を縦断するように教卓に近づくと、テキストや参考書を片づけている孫兵に話しかけた。

「あ」
「あー、乱太郎もやっぱり理解できなかったんだな…」

 孫兵の前で首を傾げている乱太郎の後ろ姿をなんとはなしに眺めていると、しみじみとした調子で伊助が言った。英語に関して伊助と似たり寄ったりの成績の乱太郎だから、おそらく伊助が庄左ヱ門にぶつけたような質問を孫兵にしているのであろう。
 この位置から乱太郎の表情は窺うことはできないが、教壇に立つ孫兵の表情はよく分かる。それを見た庄左ヱ門は、その秀麗な眉を顰めた。

「あの顔、あきらかに喜んでる顔だ」
「え?あー、まあ、そう見えなくもないなあ…って庄左ヱ門?顔が恐ろしいことになってるぞ、お前」
「伊助、僕は生徒に対する態度が先生の好みによって変わったりするのは褒められたことじゃないと思うんだ」
「え?好み?伊賀崎先生が乱太郎のこと気に入ってるってことか?何を今更」
「あ、ほら、あれ近いよね、どう考えても近すぎるよね。近づきすぎだよ」
「いやあれは多分乱太郎の字が小さすぎて見えないからだろ?」
「不埒なエロ教師め…」
「いやいやいやそれ本人に聞こえたら大変なことになるからって、え、あれ、ただの『できない子可愛さ』じゃないのか?ていうか怖い、庄左ヱ門怖い」
「英語なら僕が教えてあげるのに、むしろ大歓迎なのに」
「あ、結局そこ?まあ俺も古典だったら譲らないけどってそうじゃなくて!」

 今英語研究室のアレをああするか、それとも先生の愛車に……などと物騒な計画を呟き始めた庄左ヱ門と、そんな庄左ヱ門を顔を青くしながら止めようとする伊助は気づかなかった。
 理解できたのが嬉しいのか明るい声を上げた乱太郎の頭を笑顔で撫でてやっている孫兵先生を、英語が得意な兵太夫や喜三太、彼らと同じように乱太郎に思いを寄せる他のクラスメート、そして、次の時間の準備をするために早めに教室へ来ていた数学担当の浦風藤内先生が思いきり恨めしそうに睨みつけていることに。


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 孫兵先生は伊助が言ったとおり、「できない子可愛さ」で乱太郎を可愛がっています。今は、まだ。
 孫兵が生物教えたらテンション上がりすぎで理解できなさそうなので英語教師になっていただきました。例文に爬虫類関係の専門用語を使う以外は良い先生です、多分。

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