秘密を共有しましょう



 ざりっ、と嫌な音がした。次の瞬間走ったのは焼け付くような痛みで、藤内は思わず手を引く。手の中にあったカッターは藤内の手から離れると、かしゃん、と音を立てて床に落ちた。
 しかしそれを気にしている余裕はなかった。左手の中指の腹に一本伸びた赤い筋から、川が決壊したかのように血が溢れ出してくる。じりじりと熱い痛みに、指先が震える。

 委員会活動中の教室の片隅で起こった出来事に、最初は誰も気付くことはなかった。各々の作業やお喋りに熱心で、一人だけ違う作業を割り振られていた藤内は痛みに耐えながらどうするべきかとぐるぐる悩み出す。即保健室、という考えが浮かばなかったのは、予期せぬ怪我に動揺していたからだった。痛みが冷静な思考を邪魔していた。
 そんな藤内に声を掛けてきたのは、風紀委員会副委員長である黒門伝七であった。藤内の作業状況を確認しに来たのだろう、近付いてきた彼は床に投げ出されたカッターに気付くとそれを拾い上げる。
 刃が出たままで放り投げたら危ないじゃないか、速く拾え、と伝七はカッターの刃を収めながら咎めた。しかし、返事どころか振り返りもしない藤内の様子がおかしいことに気付き、怪訝そうに肩を叩く。

「浦風、どうした?」
「黒門先輩…いえ、ちょっと…」
「うわっ、お前何をやっているんだ!」

 伝七の慌てた声に初めて教室内の視線が藤内に注がれた。一瞬静まり返った教室は、様子がおかしいと彼らが気付いた瞬間にざわりと揺れ始めた。
 これは、自分の注意力散漫が生んだ怪我だ。つう、と指を滑っていく血を見て、俺は何をやってるんだと情けなく思い始めていた藤内は、あまり注目しないでほしいと思いながら、何故か自分より青い顔をしている副委員長を見て苦笑いを浮かべた。

 どうしたものかと藤内が思いを巡らせていると、固まっている伝七の背後から委員長である笹山兵太夫がひょこりと顔を覗かせた。彼は藤内の怪我を見付けるなり、派手にやったなと眉間に皺を寄せ、藤内に早く保健室に行けと促した。

「ちゃんと傷口は洗ってから行けよ。余計なものが入っているかもしれないし」
「はい。すみません、後の作業は…」
「ああ、気にしなくていい。この役立たずにでもやらせるから」

 そう言ってフリーズしたままの伝七を小突いた兵太夫に、すみません、お願いしますと乾いた笑いを返しながら藤内は席を立った。
 皆は作業に戻れという冷静な委員長の声に、それほど気にすることでもないと判断したのだろう。藤内が教室を離れるのとほぼ同時に、他の委員たちはそれぞれの作業に戻っていった。


 元の空気を取り戻した教室の中、一人だけ固まり続けている伝七に呆れたため息を吐きながら、兵太夫は冷たい声を投げる。肩を小突くその手が少々手荒で面倒くさげであるのは、幸い誰も気付かなかった。
 少しして伝七の目に焦点が戻って来る。苦労かけやがって、と兵太夫は伝七の背中をばしりとやった。容赦はない。

「いてっ!なにするんだ!」
「やっと気が付いたか、伝七。役立たずの伝七」
「今なんて言った兵太夫!……ん?浦風はどうした?」
「お前が立ったまま気絶している間に保健室に行かせた。怪我した後輩ほっぽって何やってるんだよ。血が苦手ってレベルの話じゃないぞ、お前」
「やたら見慣れてそうなお前には言われたくない!それに気絶なんてしていない!」
「あー分かった分かった。どうでも良いから藤内の仕事引き継げ」

 ぎゃあぎゃあと喚く伝七を綺麗にスルーしながら、兵太夫は自分のいた席に戻った。まだ仕事は残っている。再来週に控えている生徒総会、いやむしろそこで同時に開かれる予算審議に向けて綿密な計画を立てなければならない。そこで万が一失敗してしまえば、後日開かれる予算会議で予算を削られることになる。
 見てろよあの馬バカ委員長めと、綺麗な顔からは想像もつかないような悪口雑言を心の中で並べ立てながら、兵太夫は自分の席の椅子を引いた。
 保健室に向かわせた藤内のことが気がかりでないことも無かったが、あの程度の怪我は縫うようなことにはならないだろうし、血の出もそこまではひどくなかった。先生に任せておけば良いだろうと、彼は先ほどまで睨めっこしていたパソコンに向かった。

 このときのことを彼はこう語る。あれがきっかけだったというのなら、何が何でもついて行ったのに、と。





 最近、物思いにふけることが多くなったと思う。いや、正確には彼女について考える時間が以前にも増して多くなった。原因は分かっている。いつも花のように可憐に笑っていた彼女が見せた涙が、焼き付いて離れないからだ。
 藤内が落ち込んでいたとき、疲れていたとき、苛立ちを抱えていたとき、どんなときも彼女の笑顔を見れば心が、すっ、と落ち着いた。掛けてもらった言葉も、根拠や論理的なものはなかったけれど、それを越えた力があった。大丈夫だよ、と言ってもらえればそう信じられたし、頑張ろうね、と声を掛けてもらえれば力が湧いてきた。
 癒される、和む、ほっとする、という言葉で表現していた彼女の表情を、守りたいと思うようになったのは確実にあの朝の出来事がきっかけだろう。笑顔だけではなくて、ひた隠しに隠されてしまう涙とか、苦しみとかそういうものも受け止められるような位置にいられたらと、思うようになっていた。
 もっと、傍にいたい。傍にいて抱き締めて、彼女の涙の場所になりたい。もちろん、あの可憐な花のような笑顔を見ていたい。

(でもなあ…)

 自分にそんなことができるだろうか。自分は彼女が頼りにできるような人間だろうか。キスしたいとか、それ以上の関係になりたいとか、そういう下心だってあるし、いや、そもそも自分は彼女にどう思われているのだろうか。彼女を守れるなら「可愛い後輩」のままでも構わないけれど、でも実際にそれだけだったらショックだ…

 ぐるぐるとそんなことを考えていた藤内は、目の前に迫った壁に気付かずに思いっきり激突し、怪我をひとつ増やしてしまったのであった。





「…失礼します」
「はーい。あれ、藤内くん…って、どうしたのそのおでこ!」
「あ、これは…その…ははは…。えっとですね、最初の目的はこっちだったんです、が…」
「わっ!」

 藤内がそろそろと掲げた手を見てぎょっと顔を強張らせた乱太郎は、慌てて藤内を丸椅子に座らせた。手当ての準備に走り回る乱太郎の後姿を追いながら、藤内はふと、自分と彼女以外に人がいないことに気付いた。
 今日は中等部高等部合同委員会の日だ。どの委員会も活動が義務付けられているはずであるのに、なぜ彼女以外の保健委員がここにいないのだろう。気になって尋ねると、消毒液やガーゼを抱えた彼女は、皆トイレットペーパーや石鹸の補充に行っているんだよ、と教えてくれた。

「本当は委員会が始まってすぐに行くつもりだったんだけど、行事委員会と生物委員会が怪我したーって飛び込んできてね。あと美化委員の久々知くんと代議委員の鉢屋くんも来たんだよ」
「…その対応をしていたら、今の時間にずれ込んだ、ってことですか」
「そう、そういうこと」

 他の子たちが来るかもしれないから私はお留守番することになったんだけど、正解だったね、と笑う乱太郎に、藤内は運が良いのか悪いのか分からないと苦笑いを返した。
 恐ろしい先輩方や友人がおらず、彼女と二人きりというこの状況は美味しい状況には違いない。隣のクラスの名物三人組辺りにばれたら拳付きで羨ましがられそうである。もちろん、藤内自身も嬉しく思わないわけがない。
 しかし、うっかりカッターで指を切ってしまう程度に彼女のことばかり考えている今の状況で、彼女と二人きりというのは動揺してしまう部分が大きい。
 それにあの屋上での出来事からそれほど日が経っているわけでもなくて、どこか気まずいような気がする。
 いや、藤内が、というより、乱太郎が気まずく思うのではないだろうか。あの日も泣き止んだ彼女は、ごめんね、恥ずかしい先輩で、なんて困ったような顔をしながら言っていたから。

 しかし藤内の予想とは裏腹に、彼女はどちらかといえば嬉しそうにしていた。普段通りの彼女だと言っても差し支えはないだろう。窓から差し込む午後の日差しの中で、白い頬がほんのり赤く染まっているようにも見えた。
 痛かったら言ってね、という言葉と共に傷を負った手に添えられる乱太郎の手は温かくて、ほっとするし、落ち着かない気分にもさせられた。目の前で揺れる茜色は藤内の心をひどく揺さぶる。

 てきぱきと手順良く進んでいく手当てをぼんやり見つめながら藤内は、あのときのことを思い出していた。
 それは自分がまだ、初等部の児童だった頃のこと。どうしてそんな怪我を負うことになったのか、きっかけが何であったのかは覚えていない。七年も前のことだし、彼女に手当てしてもらったことの方がはるかに印象的だったから、仕方ないだろう。
 今思えばたいした怪我ではなかったけれど、負った怪我を見て不安で仕方なかった自分に大丈夫だからね、と笑いかけてくれた彼女に恋をした。
 思えばそれから色んな思いを味わった。彼女の周りにいる人間の壁の厚さに諦めを抱いて、名前を覚えてもらっていたこと知って諦めを捨てて。後輩に嫉妬したり、先輩に睨まれて肝を冷やしたり。
 そして、彼女の涙を初めて見たあのとき、このひとを守りたいと思って。

 そこまで思いを巡らせたとき、ふと藤内は引っかかるものを感じた。本当に?本当にそうだっただろうか。



 その「初めて」は、本当に初めてだっただろうか。



「あのね、」

 乱太郎が小さく口を開いた。藤内はその声に、はっと現実へ戻された。まだ手当ては続いている。彼女の目は藤内の手に注がれたままだったけれど、なぜか藤内は、彼女の常磐色の瞳を強く意識した。

「思い出話を、してもいいかな?聞いていてくれるだけで良いんだ」
「は、はい。どうぞ…」
「ありがとう」

 彼女は礼の言葉を口にしながら、顔を上げてにこりと微笑むと、そっと言葉を紡ぎ始めた。昔話を子どもに聞かせるような、優しく、穏やかな声音だった。

「…私が初等部の、五年生だったときのことなんだけど」

 どきっ、と心臓が跳ねる。予感が深いところからせり上がってくる。
 彼女の声と自分の心臓の音、それ以外は音のない部屋の中で、少しずつ、少しずつ何かが見え始めた。

「私ね、その頃からすでに不運で。その日は確か、木の根に引っかかって転んで、その先にあったちょっとした斜面から落ちて上がれなくなっちゃって」

 彼女は何を話そうとしているのだろう。藤内はうるさく響く己の鼓動を意識しながら思う。
 もし、もし彼女の話が今自分が予感しているものと同じであるならば、彼女の話に次に出てくるのは恐らくは。

 ……自分だ。

「体育館裏の人通りもほとんどないところで、助けてくれるひとも期待できなくて。ああ、このまま誰にも見つけてもらえなかったらどうしようって思ってたときに、斜面の上から男の子が声を掛けてくれたんだ」

 そう、あのときは確かかくれんぼをしていて、隠れる場所を探しているところだった。この辺りなら簡単には見つからないだろうと、初等部の体育館裏を歩いていてその声を聞いた。涙交じりの、女の子の声だった。

 誰だろう、その声に引き寄せられるまま声のする方向へ進んでいくと、密集して生えている桜の木の下に、彼女を見つけた。
 その木は背後に一メートルほどの落差がある斜面があって、当時の彼女の背では一人で上がるのは無理であった。地面に座り込んで、顔を伏せているその子に声を掛けると、彼女はぱっと顔を上げた。


 ああ、そうだ。そのときだ。こんな大事なことをどうして忘れていたんだろう。クリアになった思い出と思いに、藤内は、違和感の正体を得た心がすとん、と落ち着くのを感じた。
 そう、そのとき初めて、彼女の涙を見たんだ。

(そのときから、思っていたじゃないか)

 乱太郎が触れていない方の手に、力が入った。名前も聞く前から、彼女のことを知る前から、泣かないでほしいって、自分が守ってあげなくちゃって。

「見つけてもらえたのが嬉しくて、安心したら涙が止まらなくなっちゃってね。びっくりしたのかな、その子が大丈夫、大丈夫だから泣かないでって、言ってくれたんだよ」

 藤内は何も言えずにただ、彼女の話を聞いていた。
 ただの、ただの思い出話だと彼女は言った。でも、愛おしげに話をする彼女は、頬を染めて言葉を継ぐ彼女は、本当にただの思い出話としてこの話をしているのだろうか。
 藤内は思う。自惚れることが許されるのなら、彼女は。

「その子がくれた大丈夫って言葉が、どれだけ嬉しかったか、どれだけ頼もしく聞こえたか…きっとその子は気付いてないと思うけどね。そのときは助けてもらって、そのまま別れちゃったんだっけなあ…ちゃんと名前聞かなかったのを後悔したんだけど、違う子から名前聞いて、いつかちゃんとお話したいなって思ってたんだけど」
「…結局七年間、一度も話はできないまま、だったんですよね」
「うん。だから、私のことなんて覚えてないだろうなって思ったし、変わっちゃったかなとも思ったけど、その子はその子だったよ。…優しくて、格好良くて」

 そう言いながら、乱太郎は顔を上げる。常磐色の目をふにゃりと細めて、まるで花が咲くように微笑んだ。
 今までに藤内が見てきたどの笑顔よりもずっと、ずっと可憐に。



 笑った。



「…あの日、私が好きになった、彼のままだったよ」

 「その子」とは誰ですか?今でも、「その子」が好きですか?なんて愚問は藤内の口から出てこなかった。彼女の笑顔と、赤く染まった頬がすべてを物語っていた。
 何事もなかったように、じゃあ次は額の傷を見せてねと乱太郎が伸ばしてきた手を捕まえると、藤内はその常磐色の瞳を真っ直ぐに見つめ、そして―…















 乱太郎の変化に最初に気付いたのは、保健委員会副委員長である鶴町伏木蔵であった。
 例に漏れず今回も色々と不運に巻き込まれながら学園内を駆け回り、当初の予定を大幅に遅れて保健室に戻ってきた彼は、どこかそわそわと落ち着かない雰囲気の乱太郎に声を掛けた。

「どうしたの乱太郎、何かいいことあった?」
「え、わ、分かる?分かっちゃう?」
「うん」

 ほやほやと花が飛び交いそうな可愛らしい雰囲気を纏っている乱太郎に、可愛いなあと思いつつ伏木蔵が嫌な予感を感じずにはいられなかった。嫌な予感に限って当たるものだというありがたくもなんともない心の声をなんとか無視しようと努めながら、伏木蔵は何があったのと尋ねる。
 自分が保健室を空けたほんの三十分ほどの間に、一体どこの誰が彼女に何をしたというのか。
 内容によっては…と伏木蔵が黒い策略を巡らせていると、乱太郎は顔を赤く染めた。そして再び頬を緩めると、両手の人差し指を口の前へ持っていき、ばつを作る。

「内緒。こればっかりはないしょー!」
「えー?教えてよ、僕と乱太郎の仲でしょう?」
「うー…ごめんね、まだ言えないんだ。ちゃんと、そのときが来たら…来ないかもしれないけど…そのときになったら言うからね!」

 だから、今は内緒なのだという乱太郎に、抱いているこの嫌な予感が現実のものになりそうな予感を上書きされた伏木蔵は、普段背負っているものとは比べ物にならぬほど重たい空気を背負うことになるのであった。


_ _ _ _ _

 ようやくここまで来たか、って話ですが、実はこのときはまだ藤内は乱ちゃんに告白していません。多分、自分も七年前のあのときから的なことを言ったんではないかと。そんで二人して真っ赤になって居た堪れなくなった藤内が逃走→一人残された乱ちゃん嬉しいなあ嬉しいなあで可愛いことに→伏木蔵さん帰ってくる みたいな流れです。

 後日、そういえばちゃんと告白してないじゃないか!ってなった藤内が乱ちゃんに告白してそこでめでたくお付き合いが始まるのです。そこは書かないと思いますが。あにゃあああああってなる、絶対なる、恥ずかしくて絶対そうなる。私が←

 実は藤内だけでなく、乱ちゃんも七年前から気になってたんだよ、一話目で乱ちゃんが1年3組にいたのは、数馬を迎えに来たというのもありつつ、もしかしたら藤内に会えるかもしれないと思ったからなんだよ、などと補足しつつ。
 一応あと一話で終わりの予定です。後日談というか番外編的な感じで、お付き合い始めてからの話はいくつか書くつもりでございます。

top



×
「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -