It's too horrible to long for it
ぱち、ぱちりと小さな音が響く。手触りの良いラグの上、座椅子に腰掛け無心で画面を見つめる男は、照明の抑えられた室内を震わせた音に、ちっ、と舌打ちを送った。
彼の名前は山田利吉という。涼やかな目元を少し細めて、口の端に柔らかい笑みを浮かべれば、大抵の女性は顔を赤く染めるであろう端正な顔を台無しにしながら、彼はガラステーブルの上に乗せられている機械に手を伸ばした。
せっかくここまで来たというのに、と誰にも聞かせるわけでもない言葉と共に、かちりとそのボタンを押す。すると、画面は暗転し、一瞬の後に再び絵が踊る。
テーブルの上にあったマグカップを少々荒い手つきで取り上げ、温くなってしまったコーヒーを啜りながら、画面に再び目を走らせた。手元にある機械を操作し、データを呼び出す。ぱっ、と切り替わった画面を見て、利吉は思わずため息を吐いた。
「こんな前からやりなおしか…」
もう少しまめにデータを保存しておくべきであったと後悔する。久々にやるものだったけれど、もう数え切れないくらいほどやってきたものだったからと油断していた。少々危ないかもしれないが、行けるだろうと思った結果がこれである。まさか、まさかあんなところでやられてしまうとは思わなかったのだ。
一時間ほど前に見た覚えのある画面の中の光景に、もうやめてしまおうかという考えが浮かんだ。これは必ずしもやらなくてはならない作業ではない。義務でも労働でもない、「趣味」に入るものだ。
あの「戦闘」をもう一度こなさなければならないと思うと、目が遠くなってしまう。昔はもっと、こういうものに対してもやってやろうという気概を持っていた気がするのだが、今はどうにもやる気が起きない。歳を重ねたということでもあるだろうし、もうひとつ、理由があるせいでもあるだろう。
あのときとは違って、今はひとりだということ。それも大きな原因のひとつになっているに違いない。
それでも惰性的にぱちり、と選択音を響かせた瞬間、部屋のドアがノックされた。遠慮がちに二度、小さく叩くのは彼女以外にいないと、利吉は隠しきれない笑みを浮かべながら入室を促した。
ゆっくり開いていくドアの隙間から廊下の淡い光が入り込んでくる。ドアの向こうにいる彼女の顔は、利吉がいる部屋の中が暗いのでよく見えなかった。しかし、背格好と、「あ、利吉さんまた暗いところでそんなことして!」というどこか甘く聞こえるお叱りの言葉に、やはりな、と利吉は笑った。同じタイミングで部屋の明かりが灯される。彼女がドアの傍にあるスイッチを入れたのだ。
暗がりに慣れた目には暴力的な白色の光に思わず目を細めると、手に何かを抱えた彼女が近付いてくる。少しだけ、怖い顔をして。もっとも、利吉からすれば可愛らしく見えるだけでちっとも怖く見えないのだが。
そう思っているのが顔に出ているのだろう。彼女は利吉の顔を見て、もう、と呟いた。
「何がおかしいんですか」
「いや、なんでもないよ。いらっしゃい、乱ちゃん」
「はい、お邪魔します」
彼女は手にしていたノートや問題集、筆箱といったものをテーブルの上に置くと、利吉の隣に座った。そしてテーブルの上にある機械や、テーブルの正面に置かれたテレビ、利吉の手の中にあるコントローラーにそれぞれ目をやると、駄目ですよ、と再び怖い声を出した。
「暗いところでゲームしちゃ、駄目です」
「いや、ついね。電気をつけるのが億劫で」
「目を悪くしちゃいますよ」
怖い顔をしたまま、自分が掛けている丸いレンズの眼鏡を指し示して、こんな風に、と言う乱太郎に、以後気をつけます、と一瞬だけ真剣な顔をしてみせる。
きみに心配されたいから、そうしているのだと言ったら、この子はどんな顔をするだろうか、などと考えながら。
乱太郎は利吉の幼なじみだ。といっても、歳が八つ離れているから、「幼なじみ」という言い方は正しくないかもしれない。しかし、隣の家に住んでいる彼女とは小さな頃からよく一緒に遊んだし、勉強を教えてあげたこともある。というか、勉強に関しては現在進行形だ。
階下のリビングで寛いでいるであろう父を、乱太郎の担任教師である伝蔵が出した宿題を息子である利吉が見るというのは、なにかこう、微妙なものを感じずにはいられないのだが、乱太郎と過ごせる時間を得られるのは喜ばしいことなので利吉に文句などあるはずはない。
数学の問題集を手に、ちょっと教えてもらってもいいですかと、窺うように尋ねてくる乱太郎に、勿論、喜んでと返すと、利吉はテレビの電源とゲーム機の電源を落とした。
そういえば、と、利吉の授業を受けていた乱太郎が声を上げた。
「利吉さん、さっき何のゲームをしていたんですか?」
五分ほど前に淹れ直してきたコーヒーを啜っていた利吉は、残り一問となった宿題を覗きこんで計算が違っている部分を指摘してやってから、昔よくやっていたゲームだよと笑ってみせる。
「乱ちゃんも覚えているんじゃないか?」
両手でマグカップを支えるようにしてココアを飲む乱太郎に、先ほどまでプレイしていたゲームのタイトルを告げると、彼女は目に見えて苦い顔をした。
「それって…あのゾンビが出てくる…」
「そうそう、これはそのゲームのリメイク版だけどね。懐かしいな、乱ちゃんすごく怖がってずっと私に縋り付いていたっけ」
「だ…っ、だって仕方ないじゃないですかっ!本当に怖かったんですから!」
今でも思い出すだけで怖いです、と不安げな顔をする乱太郎に利吉は微笑みかける。
「その割には逃げ出したり、画面から目を離したりはしていなかったと記憶しているけれど」
「それは、その…怖いもの見たさで…利吉さんが楽しそうだったので気になったんです」
「それはつまり、その頃から私のことを好いていてくれたと解釈してもいいのかな?」
「…恋愛の好き、とは違った気がしますけど」
そうだったのかもしれません、とごにょごにょ呟く乱太郎に、利吉は満足げに笑った。
乱太郎は当時、小学校の低学年だった。近所のお兄さんを慕う程度の、恋愛とは程遠いかも知れぬその感情を、しかし利吉は嬉しく感じた。
この子の初恋の相手が自分であるのは歴然とした事実であるし、今の自分たちの関係を考えれば余裕でいられる。そういう自信が、利吉にはあった。
テーブルに肘をついて乱太郎の顔を覗き込めば、彼女は顔を真っ赤にしていた。
「そんな昔のこと、はっきりとは覚えてないですよ!」
「…じゃあ、思い出させてあげようか」
「え」
「宿題、終わったね。というわけで」
利吉は言うが早いか、素早くテレビとゲーム機の電源を入れた。まさかと目を見開いた乱太郎にウインクを飛ばす。
「このゲームを見ていれば、きっと思い出すと思うよ」
「余計なものまで思い出してしまいそうなんですけど…!」
顔を引きつらせた乱太郎が、それでも逃げ出さないことを知っている利吉は、ぱちりと慣れた手つきでボタンを押した。
当時のように、彼女が隣にいればどんなに前からのやり直しも厭わない、いやむしろ、最初から始めても構わない。
義務でも労働でもない、「趣味」と「思い出」、そして、縋り付いてくる小さな体温を愛しく感じる時間が、始まる。
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アポトーシスの日向アオイさんに捧げます、利乱でした。
うちの利吉さんはこんな感じになりました。利吉さんは「殴りたくなるほどイケメンに書けたら勝ち」というスタンスで書いてみたのですが…いかがでしたでしょうか。大人の余裕の中に「乱ちゃんは可愛いなあ」と乱ちゃんを可愛く思っている利吉さんが出ていたらいいなあ、なんて思います。
アオイさん、本当に素敵なお話をありがとうございました。アオイさんに少しでも楽しんでいただけましたら幸いです。
タイトルの「long for」は「懐かしむ」とかそんな意味です。使い方これであってるのかな…←
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