everblooming shine
「そのとき」のことは、正直言ってはっきり覚えていない。友人や先生方から伝え聞く話がほとんどだ。
それは、ある実習の最中のことだった。
先に、その実習について触れておきたいと思う。その実習は上級生になれば否応無く経験しなければならないもので、四年の終わりから実技の授業に組み込まれていくものだった。最初は抵抗もあった。その実習は仲間内でさえはっきりと口にできる内容ではないし、一般人にはとてもじゃないが言えたものでもない。その実習に耐えられなくなって学園を去った仲間も何人もいる。
でも私は、最上級生になるまで学園に残り続けた。実習の内容に何も感じなかったわけじゃない。嫌悪感を抱いたことだってある。でも、その実習が「忍者になる」ためには必要なものだと先生方に言われたのもあるし、自分にもそう言い聞かせて、走り続けた。
一日経てば嫌なことは忘れてしまえる私と違って、他の奴らは苦労したみたいだった。
一番は、そう、やっぱり伊作だろう。あいつは保健委員だし、優しい性格をしていたから、初めて見た「あの光景」にはかなりのショックを受けていたみたいだった。その次の日から数日間は暗い顔をしていたしな。
仙蔵もそうだ。あの頃から冷静で、人を食ったような言動をしていた仙蔵だが、あのときばかりは言葉を失って、元々白い顔をさらに白くしていた。長次にしろ、文次郎にしろ、留三郎にしろ、あの実習から受けたものは大きかった。自覚はさっぱりなかったけれど、多分、私もそうだった。
でも、私たちがこの学園に今もあるということは、それぞれにそれを乗り越えた事実があるからだろう。慣れてしまった、といえばそれまでなのかもしれない。でも私はそれだけでは説明できないと思っている。
伊作はあの実習を経て薬や治療の勉強に熱心になったし、実際にそういう分野では右に並ぶ者は無いほどの存在になっていった。あの光景を見て、思うところがあったんだろう。仙蔵はちょっとひねくれたかもしれない。でも、底にある優しさみたいなものはそのままだった。他の奴らもそれぞれに変わったし、また、変わらずにいた。精神のバランスを保つため、自分自身を失わないために変わり、失ってはならない最後のラインは失わないまま、六年生になった。
今なら言える。あいつらはすごい。ちゃんと自分の危機に気付いて、そうやって対策を取れたんだ。それが無意識だとしても、やっぱり、すごいと思う。
私は、変わらなかった。良い意味でも、悪い意味でも。さっき少し言ったと思うが、私は一日経てば嫌なことを忘れられる人間だった。
もちろん、最初はあの光景をそう簡単に忘れることなんてできなかった。夢に出てうなされたこともある。でも、いつの間にか、気にならなくなった。気に、しなくなった。
実習自体を好きになることはなかった。これは今も変わらない。でも、なんだろうな。あの光景を見ても嘔吐したり、真っ白になったり、言葉を失ったり、そういうことは無かった。先生にもお前は神経が太いなと苦笑されたこともある。自分でもたいしたことはないと思っていた。
あの光景を見て、自分の内へ確かに蓄積されていく滓に気付かなかったんだ。ただ、ひたすらに目の前の敵を倒していく、それがどれだけ精神に負担をかけるものなのか知らぬままに。上手く折り合いをつけなければやっていけぬと、自分の精神を守る策を講じなければいつか壊れてしまうことに、気付かなかった。
その日は、暑い日だった。夜になっても纏わりつくような熱気が野を、山を、平地を、蝕んでいた。
途中までは記憶にある。任務自体はある屋敷から密書を盗み出してくるという至極簡単なものだった。六人で協力して任務を終え、学園への帰路にあった私たちは、半ばといったところで忍者に襲われた。ついさっき密書を頂いてきた屋敷の主人が雇っていた者たちだった。
重く湿った闇夜に響く剣戟の声、漂うのは濃く錆びついた血の霧。顔のほとんどを覆った布の隙間から侵入してくるそれは、理性を溶かすには十分だった。
たぶん、色々な要素が絡み合った結果だったのだと思う。
その日は徹夜三日目だったし、任務の最中に文次郎と軽く言い合いをしてしまった。肌に張り付く湿気も、攻撃の手を止めない敵の忍者も、頬を掠めた刃の冷たさも、傷から走る焼け付くような痛みも。そして、発散されずに蓄積され続けた滓が、そうした外的要因によって刺激された、その、結果だったのだろう。
ここからは、聞いた話になる。所どころ自分でも覚えていることもあるのだが、そのすべては断片でしかなくて、それだけでは上手く繋がらない。長次や文次郎、先生方に聞いた話を総合してようやく、自分に何があったのか知ることができたくらいだ。
それは、深い森での戦闘を終え、さあ、学園へ戻ろうかというときのことだったらしい。最初に気付いたのは長次だったそうだ。あいつはそういうのに聡いから、当然といえば当然だったのかもしれない。
散開して敵に当たっていた私たちは合流して学園に向かうことになったのだが、いつもなら明るく声を上げる私が何も言わないことに疑問を感じたと言う。そして長次が見た私は、明かりの無い夜だというのに目を鈍く光らせているようであった、らしい。
そこで長次は私に声を掛けたというのだが、私はひとつも覚えていない。当たり前だ、戦闘の途中から記憶がないのだから。何の反応も示さない私に、他の奴らも少しずつ、私の様子がおかしいと気付いていった。声を発さないだけではなく、まるで私の周りだけ空気が重く淀んでいるようであったと、長次は言っていた。
一番近くにいた留三郎が、私の肩に手を掛けた瞬間、「それ」が爆発した。留三郎の手を払った私は闇を通して尚、鋭く貫く目を皆に向けた。ぞっ、と蒸し暑いはずの空気が冷えた。小平太、お前どうした、と、誰かが私に声を掛けたのは微かに覚えている。私は答えずに走り出した。普段よりもずっと速く、任務の疲労も何も感じさせぬ速さで。
何度も言うが、私はほとんど何も覚えていない。敵の忍者に襲われたこと、散開して敵に当たることになり、数人を相手に木々の間を移動したこと、突きたてた苦内から伝わる感触、鉄が錆びたような緋色の臭い、ああ、それと、敵の断末魔だ。それを最後に私の記憶は断片的なものになる。
いつもと様子の異なる私を前にしたあいつらは、慌てて私の後を追ったという。何をしでかすか分からない、そんな危機感を抱いたらしい。そのままの状態で学園に帰してしまったら、下級生に悪い影響を与えるかもしれないと、そう思ったという。自分たちはある程度耐性があるけれど、何も知らない一年生があの状態のお前を見たら失神するか、トラウマになるかどちらかであっただろうと、仙蔵が言っていた。
しかし、結局あいつらが恐れていた事態にはならなかった。空も白み始めた頃、学園に着いた私は、「あいつ」に出会った。その瞬間のことだけは良く覚えている。
眠たそうに左右に揺れる茜色の頭を視界に捕らえた瞬間、淀んでいた世界が揺らいだ。
逃げろ!と私の背後から放たれた声に振り返ったその目に、揺らぎ始めていた世界が洗われていくような、そんな感覚に襲われた。
朝の光の中で驚きに見開かれた常磐色の瞳を見て、どうしようもなく泣きたくなったのを、覚えている。
ああ、やっと救われるんだと。そう、思った。
次の記憶は見慣れない天井と、心配そうに自分を覗き込む常磐色だった。ここはどこだろうとまだどこか霞みがかった視界を巡らせている私に、あいつはひとつ目を丸くすると、気付かれましたか、と声を掛けてきた。穏やかに世界を覆っていく小雨のような、そんな声に思えた。
重く、だるい口をどうにか開いて、あいつの名を呼ぶ。あいつは、はい、と短く答えた。
「ここは…」
「医務室です。覚えてらっしゃいますか?実習から戻ってきてすぐ、倒れられたんですよ。ぷつんと、糸が切れたみたいに」
近くにいらっしゃった伊作先輩と食満先輩がここまで運んできて、と続けるあいつの言葉を、私は正直あまり聞いていなかった。ただ、あいつの、乱太郎の目を見ていた。
前に、長次が言っていた。乱太郎は常磐だと。不変の緑だと。そのときは良く理解できなかったが、そのときになってようやく理解することができた。
「新野先生がおっしゃるには疲労と寝不足から来るものだそうですのでしっかり養生を、」
「乱太郎」
「はい?」
緑がこちらに向けられた。常磐、変わらないもの、緑の、光。
「ありがとう」
そう言うのが精一杯だった。
変わらないことが必ずしも良い方向へ向くとは限らない。変わらないと思い込んでいても、いつの間にか歪んでしまうこともある。
今回の事件は、まさしくそれが原因だったのだろう。自分ではたいしたことはないと思っていたが、発散されずに少しずつ蓄積されていった歪みや淀みは、もう少しで私を壊すところだったのだろう。上手い説明はできないが。委員会や日常生活の中で上手く発散していたつもりなんだが、その辺りは難しい、心の問題とかいうやつなのだろう。
だから、強いものへと変わることは、必要なことなのだと思う。自分を失わないために、大切な何かを守るために。
でも、それでも、乱太郎にはそのままでいてほしい。澄んだ常磐色のままでいてほしい。お前がいてくれたら、私は戻ってくることができる。人のままでいられる。今は、自分の力だけではどうにもバランスを保つことができそうにないから、少しだけ頼らせてもらいたいんだ。
それが、はじまり。
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以前お茶会でお話させていただいたあかばねさんに捧げます、こへ乱です。
こんなこへ乱萌えるよね!っていうお話で盛り上がって、それをお話にさせてもらう許可をいただいたのですが、ぽかやらかした立野はそのネタをメモしたものを消してしまいまして、もしかしたらあのときお話した内容と違っているかも知れません…あかばねさんすみません…orz
私のイメージなのですが、小平太はストレスやもやもやを発散できているようでできていないようなタイプの気がします。知らずに溜め込んでしまうといいますか。しかも忍者としての腕がある上に溜め込んでる自覚が無いので爆発したとき自分も周りもどうしようもない、みたいな。
そんな小平太が乱太郎は自分の精神安定剤だと気付かされる話を、書きたかったわけなのですが…どうでしょうか…
あかばねさん、お待たせしてしまってすみません。少しでも何かを感じていただけましたら嬉しいです。また、お話させてくださいませね。
素敵なネタをありがとうございました!
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