魚と酸素
ひそり、忍び込んだ夜の学校は重い闇に沈んでいた。
所々でぼんやりと円い光を投げかけている街灯、暗色をした校舎、放課後はたくさんの生徒が駆け回っていた校庭も今は静まり返っている。昼間の熱が冷めずに燻り、ひそりとも音のしない小路を乱太郎は歩いていく。
時折、ざりっ、と靴が砂を引っ掻いた。その微かな音にどきりと心臓を跳ねさせながら、乱太郎は校舎には向かわず、体育館の脇へと入った。
昼であっても人通りの少ない体育館と、乱太郎が目指していたプールの間にある通路に差し掛かると、闇に水の音が響いた。
ぱしゃり、ぱしゃん、と水を叩くその音は、波の音のようにも聞こえる。降り積もるような夜を騒がせる類のものではなく、夜に行われる儀式のような神聖さを感じさせた。
乱太郎はフェンスで囲まれたプールの入り口に立った。夜間であれば厳重に鍵が掛けられているはずの鉄の扉は、乱太郎を誘うかのように薄く開いている。
自分が今日、ここに来ることを見越して、「彼」がわざとそうしたのだろうと、乱太郎はゆっくりその扉を押し開いた。
更衣室の前で靴と靴下を脱ぎ、扉の側に置いた。洗眼のための水道が並ぶ通路を抜けると、ぽたり、ぽたりと雫を生むシャワーがある。雫を上手く避けて乱太郎はプールサイドへ出た。体育館とプールを繋ぐ通路にいたとき微かに聞こえていた水音が少し大きく響いて、乱太郎の耳をくすぐった。
街灯が照らす円い光の中にその姿は見えなかった。さざめく波がかろうじて確認できるだけ。どこを泳いでいるのか、きょろりとひと巡り50メートルプールの周りを眺めた乱太郎は、飛び込み台に近寄った。
やっつ並んだ台の真ん中に立ってプールの中を覗き込む。響いている音からすると、反対側の近くにいるのだろうと検討をつける。
乱太郎は飛び込み台から下りてプールの側面に回った。プールの縁、排水用のそれから少し距離を取り、数歩進んだところで立ち止まり、もう一度プールを眺める。
ぱしゃり、とプールの縁が揺れた。乱太郎は身につけていたジーンズを膝までたくし上げると、濡れるのも厭わずにプールサイドに座り込み、両足を水の中へつけた。
どこか生温くも感じるそれはしかし、真夏の夜、纏わり付くような暑さの中では心地好い。乱太郎はぱしゃん、ぱしゃんと足を上下させる。波立つ水面は深い紺色をしていた。
「また、来たのか」
「はい」
突然闇の中から掛けられた声に、乱太郎は驚きもせずに返答した。水の中から声を掛けてきた彼は、すい、と乱太郎に近付いてきた。
それをぼんやり眺めながら、このひとは魚みたいに泳ぐひとだと乱太郎は思う。彼は泳ぐときにけたたましい水音を上げたりはしない。陸にいるときとは、違う。
乱太郎から少し離れた位置で、彼は両肘をついていた。胸から下は水につかったまま、こちらに視線を寄越すこともなく、そこにいた。
「気持ち良いですか?」
乱太郎は闇に沈んだ空気を騒がせぬように、そっと呟いた。彼はこちらを向くことなく、くるりと体勢を入れ替えた。プールの縁を枕のようにして、空を見上げて彼は乱太郎と同じように呟いた。
「まあ、な。お前も泳ぐか?」
「…やめときます」
「そうか」
二人の間に沈黙が落ちた。あらかじめ決められたその沈黙を、辛いとは思わなかった。この神聖な場所で言葉は必要ない。余計な言葉を発してしまえば陸にあるときのように喧嘩になってしまうだろうと、乱太郎は思っていた。多分、彼もそう思っているだろう。
乱太郎は彼に投げていた視線をプールの波間に戻す。彼はひとつだけ、ぱしゃん、と音を残して水の中へ消えた。
「……どうしてでしょうね」
すい、すい、と水中を自由に泳ぐ魚を追いながら乱太郎は呟く。
「いつも貴方といるときはあんなに可愛くない言葉ばかりが出てくるのに。素直になれる気がします」
貴方もそうでしょう?乱太郎の問い掛けに返事はない。ぱしゃん、水が跳ねる。乱太郎は頬を濡らす水滴に指を滑らせた。
「でも、言葉では駄目ですね。また可愛くない言葉が出るに決まってるんです。ねえ、」
乱太郎は彼の名を口にした。呼応するように波が立つ。映り込んだ情けない顔がゆらゆらと揺れた。
どうすれば、と口が動いた。
「どうすれば伝わるんでしょうね」
きっと、言葉は無駄なのだ。好きとか、愛してるとか、そういう言葉も。でも乱太郎は人間だから、それ以外に伝える術を知らない。
「私が水だったら、なんて」
そうすれば、魚の貴方は気付いてくれますか。貴方がいない私の世界はただ静かなだけの、寂しい世界なのだと。
円い光が照らす水面に、魚が跳ねた。
_ _ _ _ _
この水に溶けるように、私が落ちたら貴方は助けてくれますか。私に貴方の酸素を分けてくれますか。いえ、逆に私の酸素を奪うかもしれませんね。
(どちらであっても、同じこと)
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