涙を笑顔に変えましょう
藤内が今まで見てきた乱太郎の表情は、いつも笑顔ばかりだった。
それは花が綻ぶように、周りを明るく、暖かくするような暖色の笑みだ。藤内が初めて彼女と出会ったあの日から今日に至るまで、藤内の前にいる彼女は時々苦く笑うこともあったけれど、いつでも楽しそうに、幸せそうに笑っていた。
藤内は、彼女の涙を見たことがない。いや、正確には見た記憶を忘れ去っていた。
まだ幼かったあの日、絶対大丈夫だからと言ってくれたときの笑顔のイメージは今でも鮮烈に焼き付いていたし、彼女のことを知れば知るほど深まっていく愛しさの中でも彼女の笑顔は大きな部分を占めていた。
花のように可憐に笑う乱太郎が好きで、その笑顔をもっと見ていたいと、藤内は思っていた。人を慰め、和ませ、勇気付ける笑顔の彼女はいつでも人を思いやることのできる強い人だと思っていた。
だから、彼は忘れていた。彼女はいつも笑顔でいるものだと、決め付けて。
自分が乱太郎の涙を知っていることを、藤内は忘れていた。
視界の端を掠めたその後ろ姿に、藤内は立ち止まる。
まだ多くの生徒が登校していない、静寂に包まれた校舎を一人、藤内は歩いているところであった。
窓から差し込む朝の若い光に照らし出されている。一日の始まりに相応しい、きりりとした雰囲気だ。空気も心なしか清らかで、やっぱり朝の学校は良いなと鞄を手にひとつ伸びをした瞬間のことだった。
忍ぶように消えていった微かな足音と、その姿を認めたのは。
(今のは…まさか)
屋上に向かう階段の方へ消えていった後ろ姿は、一瞬しか見えなかったけれど、特別な色を持っているように見えた。翻った制服のスカートと、ふわりと揺れる夕日色の髪。この学校でただ一人だけが持つ色を思い返した瞬間、どきりと心臓が鳴った。
彼女だと思っただけで落ち着かなくなるなんて、かなりの重症だと思いながら、藤内は考える。
(こんな時間にどうしたんだ?)
自分がここにいるように、校舎はもう開いている時間だから別に誰が歩いていても不思議ではないのだが、確か彼女は朝が苦手だと言っていたはず。
風紀委員長の兵太夫に怒られてしまうから遅刻はしないように心掛けているけれど、それほど早くは学校に来られないのだと、いつも早い時間に登校する自分に、すごいねえと笑いかけてくれたことを思い出す。
最初は、いつかのように保健委員会の集まりがあるのかもしれないと思った。頻繁に行われるわけではないが、月に何度かあると数馬にも乱太郎にも聞いていたから、今日もそうなのかもしれない。
しかし、それならば何故、彼女は屋上に繋がる階段へ消えたのだろう。保健室は二・三年棟の一階にある。そもそも藤内が今いるここは一年棟であり、一年棟の屋上と保健室は向かい合って並ぶ二つの校舎の対角線上に位置している。
何かがおかしいと、藤内は思う。いつもは遅く登校するはずの彼女がこの時間に学校にいることも、用のないはずの屋上へ向かったことも、彼に疑問を抱かせるには十分すぎる材料だった。
気付けば藤内は、鞄を手にしたまま早足で彼女の後を追っていた。そうしなければならないと、自分の中の誰かが言った、気がした。
屋上へ続く階段をひとつひとつ上がっていく。やがて視界に捉えたドアは薄く開いており、誰かが屋上にいることを物語っていた。いつもならこのドアは、ぴたりと閉じられているはずだからだ。
藤内は足音を忍ばせ、階段の一番上まで来ると、開きかけのドアをそっと押した。なんとなく大きな音を立ててはいけないような気がしたから、できるだけ音を立てないようにと思ったのだが、蝶番が錆びたドアはキイイとか細い高音で鳴いた。
それは大した音ではなかったが、降り積もるような静けさに沈んだ朝には十分すぎるほどの存在感を持って屋上に響いていく。
開ききったドアの向こうには澄み渡る水色の空と、茜色の彼女がいた。
こちらに背を向けて、屋上のフェンスの向こうに目をやっている彼女は、藤内の存在に気付いていないのかこちらを振り向くことはなかった。
やっぱり、何かがおかしいと藤内は気付く。彼女が纏う雰囲気はどこか、いつものものと違っていた。清々しい朝の空気の中で、彼女の小さな背中はいつも以上に小さく、また、悲しげに見えた。
いつだったか、同じような朝の光の中で見た彼女とは異なる後ろ姿に、藤内は言葉を掛けても良いのかと迷った。常とは違う彼女の雰囲気に何かあったのかもしれない、そっとしておくべきなのかもしれないと思いながら、藤内はその場から動くことができなかった。彼女を一人にはしたくないと、してはならないと、感じた。
ひゅう、と風が頬を撫でる。その風に乗って、微かに聞こえてきたのは、小さな小さな、嗚咽だった。
(泣い、てる?乱太郎先輩が…)
いつも朗らかで、可憐に微笑んでいる彼女が泣いている。声を押し殺すように、誰にも知られぬようにたった一人で、泣いている。
こんな、寂しい泣き方をする人だったなんて、と思った瞬間にはもう、鞄を放って走り出していた。
「乱太郎先輩!」
「と…藤内く…?」
細い肩を掴んで向かい合う。丸い眼鏡の向こうで常磐色の瞳が驚きに見開かれ、その眦からぱらぱらと涙が零れ落ちた。
その涙に、藤内は掛けるべき言葉を失った。いつも彼女は笑顔でいる人だと思い込んでいた。彼女はなんでも笑顔でやり過ごすのだろうと、強い人なのだろうと、思い込んで。
「……何か、あったんですか」
「あ、違うんだよ、これは…」
「何もない、は無しです。それくらい…俺にも分かります」
乱太郎は笑顔を繕おうと目を細める。でも藤内は誤魔化されなかった。赤らんだ眦に見える涙の名残も、掠れて明るさを失った声も、無理をして笑おうとしていることにも気付いていた。
話してほしいとは言わなかった。無理に聞き出そうとしても彼女は大丈夫だと笑ってしまうだろう。だから藤内は乱太郎の細い肩に手を置いたまま、彼女を見つめた。
「―……」
笑顔を作ろうとしていた乱太郎は藤内の真摯な目を受けて視線をさまよわせていたが、すぐに視線を落とした。小柄な彼女が下を向いてしまうと、藤内は彼女の表情を窺うことができなくなる。
高い位置でひとつにまとめられた茜色の髪が淡い風に揺れる。伸ばした手から時折彼女の肩が跳ねるのを感じた。やがて、彼女は小さく、泣き始めた。
声をかけることもできず、抱きしめることもできずに藤内は乱太郎を見つめ続けた。両手で嗚咽を押さえ込む彼女に、この人はいつもこんな風に泣いていたのだろうかと唇を噛み締める。
この人は強い人だと、思い込んでいた。藤内は彼女の笑顔しか見たことがなかったから、彼女は泣いたりしないと決め付けていた。
彼女は優しいひとだから、周りに心配をかけまいとして無理をするところがあるのだろう。もしかしたら無意識に、自分が周りに与える影響に気付いていたのかもしれない。
彼女が笑顔なら周りも笑顔になるし、彼女の表情が曇れば周りも暗くなってしまう。だから、彼女は笑っていたのではないか。多分自分も、彼女を追い込んでいた人間だったのではないかと、藤内はきつく眉根を寄せた。
このとき初めて、藤内は思った。
彼女が何の躊躇いもなく泣ける場所になりたいと、願った。
少し落ち着いたのだろう、しゃくり上げる回数が減っていくのに合わせて、ぽつり、ぽつりと乱太郎が言葉を発し始めた。
途切れ途切れのそれは掠れて聞き取りにくかったが、理由を話そうとしているのだろうと気付く。成績が、と聞き取れた瞬間、藤内は察することができた。
彼女は受験生だ。日に日に濃くなっていくその影に追い立てられ、焦りを感じているのだろう。私は数学があまり得意じゃないないからぎりぎりなんだと苦笑いしていたのを思い出す。
かける言葉が見つからない。泣くほど、おそらくは夜眠れないほど追い詰められた彼女に何か言わなければと思うのに、藤内の頭の中には何の言葉も浮かばなかった。的確なアドバイスなんて後輩の自分ができるはずもないし、思いつきもしなかった。
何も言わない方が良いのかもしれないと言葉を諦めた瞬間、乱太郎が藤内を見上げた。その常磐色がふにゃりと細められたのを見た藤内は、考えるより先に口を開いた。
一瞬、脳裏を過ぎった微かな既視感に気付かぬままに。
「大丈夫です、絶対、大丈夫ですから」
それはあの日、彼女がくれた言葉だった。何の根拠もない、無責任だと捉えられてしまうかもしれないその言葉を、気付いたら発していた。
朝の屋上に溶けていった台詞に、誰よりもまず藤内が動揺する。もっと気の利いた台詞はなかったのかとか、目を丸くしている彼女は何と思っただろうかとか、逃げ出したいような衝動に駆られた。
でもこの言葉は、自分に安心をくれた言葉だった。特別な言葉だったから、多分自然と出てきたのだろう。あの日の彼女が自分にこの言葉をくれたようにはできなかったかもしれないが、せめて、少しだけでも。
届け、と息を飲んだ藤内の前で、乱太郎は目を丸くしたまま、小さく呟いた。
「……あのとき、と、……」
言葉の最後は風に溶けてしまい、藤内は聞き取ることができなかった。聞き返そうかと思ったが、乱太郎がこの日初めて、ちゃんと笑ってくれたのに安心した彼は、安堵で胸が一杯になってしまい、違和感は意識の外へ行ってしまった。
そしてもうひとつ、彼女が顔を歪めたときに感じた、「知っている」という感覚にも、気付くことはなかった。
それが、自分と彼女を繋ぐ鍵であることも、知るよしはない。
_ _ _ _ _
いきなりシリアスな展開になってしまったわけですが、どうしても外せないエピソードだったので今回はこんな感じになりました。
あと二回で一応完結予定です。そちらの二回は今までのノリに近いノリで行きたいと思ってます。
← top