名前で呼んでもらいましょう



 久しぶりの再会を果たした彼女に覚えてもらっていたという驚愕の事実に、ずっとずっと抱いていた恋心がどうしようもないくらいに膨らんでいくのを止められずについに諦めを捨てた藤内のそれからの一週間は、瞬く間に過ぎていった。

 藤内調子に乗るなよ、乱太郎先輩がお前のことを知っていたのは僕がうっかりお前の名前を話してしまったからでそれ以上の意味はないからなと友人に鋭い釘を刺され、浦風お前今度の服装検査楽しみにしておけと所属する委員会の副委員長に睨まれ、乱太郎がお前のことを聞いてきたんだがこれは一体どういうことなのか全校生徒が納得いく説明を三千字以上で書いて提出しろと委員長から原稿用紙を渡され、その対応に追われているうちに日は過ぎていった。
 その間も移動教室中だったり、委員会活動中だったり、友人や後輩たちと楽しそうに会話している彼女を見かけたのだが、声をかけることも、声をかけてもらうこともできずに見送ることしかできなかった。
 彼女の周りにいる人間や、自分の友人たちのガードが固くなっているような気がするのは、おそらく藤内の気のせいではないだろう。





 その日、彼女とお近づきになるには多大なる努力と根性が必要だったのだと改めて実感していた藤内は、保健室へと足を運ぶべく、渡り廊下をひとり歩いていた。
 真面目で融通の利かない性格の藤内は、中等部に進んだ辺りからたまに胃に差し込みを覚えることが多々あったのだが、最近それが頻繁に起こるようになりつつあった。原因は言うまでもない。
 胃の辺りを押さえながら、どうか今保健室に川西先輩や鶴町先輩がいらっしゃいませんようになどと祈っていた藤内の耳に、ふと、届くものがあった。


 高等部は1年生のそれぞれのクラスと特別教室が集まっている通称1年棟と、2年生と3年生の教室がある2・3年棟に分かれていて、その二棟の間には中庭があり、三本の渡り廊下で繋がっている。
 藤内が今いるのは、その三本の渡り廊下の中で最も奥にある廊下だった。校庭や昇降口に近い渡り廊下と、二棟の中央を行き来できる渡り廊下とは異なり、高等部と体育館の裏に位置しているその渡り廊下はどちらかと言うと人通りが少ない。
 保健室はその廊下を行ったすぐそこにあるので、藤内はその廊下にいたのである。


 藤内はきょろりと視界を巡らせた。
 昼休みの学園は騒がしく、人通りの少ない場所とはいえ、遠くからざわめきや爆発音や破壊音、七松またお前かー!という怒号や悲鳴などが聞こえてくる。それはこの学園の日常風景なので、大して気になるものではない。
 しかし、藤内の耳に届いたその「声」は、決して無視できない何かを孕んでいた。無視してはいけない、きっと後悔すると、心のどこかで何かが囁いたような気がした。

 後に藤内はこう語る。あれはきっと、自分を不憫に思った神様がくれたチャンスだったんだ、と。





 廊下の真ん中で立ち止まった藤内は、再び声を聞いた。今度は先ほどよりもはっきりとその声を捕まえることができた。
 誰かいませんかー助けてーと明らかに困っている誰かの声。聞き覚えのある声に藤内は思わず叫ぶ。

「ら、乱太郎先輩!?乱太郎先輩ですか!?」
「その声は…えっと、1年3組の」
「浦風です!先輩どうかなさったんですか!?」

 姿は見えないが、それは確かに藤内が心を寄せる高等部3年3組保健委員長の猪名寺乱太郎の声であった。
 どうやら中庭の方角からではなく、裏手の方から聞こえてくるその声に、藤内は慌てて上履きのまま土の上に降り立った。本来ならば下履きに履き替えるべきだが、緊急時だ、仕方ない。

「というかどこにいらっしゃるんで、す…か……あー…」
「あはは…こんにちは、浦風くん」

 声を頼りに彼女を探していた藤内は、渡り廊下からは気付きにくい位置にある桜の木の側で乱太郎を見つけた。
 彼女は、困ったような情けないような顔をして藤内に手を振ってみせる。すっぽりとその小柄な身体がおさまる程度の、落とし穴の中から。
 藤内はがっくりとうなだれた。その穴の製作者に思い当たる節がありすぎたからである。
 自身が所属する委員会の後輩であるその少年の飄々とした顔を思い浮かべながら、藤内は再び痛みだす胃を押さえた。
 藤内の胃痛の原因を五分の一ほど担っている後輩を心の中で思いっきり罵倒していると、申し訳なさそうに穴の中から声が上がった。

「ごめんね、申し訳ないんだけど引っ張ってもらえるかな?ちょっと自分の力じゃ上がれそうもなくって」
「もちろんです!捕まってください」

 藤内は穴の傍に膝をつくと、乱太郎に向かって手を伸ばした。彼女は、ごめんね、重いと思うけど…と遠慮がちに手を握ってくる。
 乱太郎がしっかり手を握ったのを確認した藤内は、彼女を引っ張り上げようと力を入れて、驚いた。

(うわ、軽っ!)

 まるで羽が生えているかのように彼女は軽かった。勢いが強すぎて転げてしまいそうになる体勢をなんとか堪えて、藤内は引き上げた彼女の身体を支える。
 他の女子と比べても小柄な人だから、軽いのも当たり前なのかもしれないけれど、それにしても、と藤内は思う。


 だってこんな、しっかりした存在感のある二つのふくらみがあるのに、こんなに軽いだなんて計算が合わないじゃないか。


 そこまで考えたところで、藤内ははっと我に返った。俺はなんてことをしたんだとパニックになりながら、ずざざざざと距離を取る。

「す、すすすすみません乱太郎先輩!」
「え、何が?あ、喜八郎のこと?」
「いえ違います、違いますが綾部のことも謝らせてください本当にすみませんでした今度しっかり言って聞かせます!」
「先輩方、呼びましたー?」
「あ、喜八郎だ」
「乱太郎先輩こんにちはー」
「え、綾部?って綾部ぇえええええお前ぇえええええ!!」

 どこから沸いて出たのか、スコップ片手にちゃっかりと乱太郎の隣にしゃがみ込んでいる中等部3年1組の綾部喜八郎は、藤内が動揺からか普段は出さないような大声に耳を塞ぎながら、なんですかと間延びした声で応えた。

「なんですかじゃないだろ!お前またこんなところに落とし穴なんか掘りやがって!高等部に掘るの禁止だって黒門先輩にも笹山先輩にも言われたばっかりじゃないか!そもそもなんで高等部の敷地内に掘る!?掘るなら中等部の誰も来ない場所に掘れよ!」
「だって中等部に掘っても引っ掛かるのは1年3組の保健委員の…名前なんでしたっけ」
「1年3組…あ、伊作のこと?」
「あーなんかそんな名前でしたね。その子だけでつまんないんですもん」
「つまんないんですもん、じゃねー!」

 ちゃっかり乱太郎の腕を取って小首を傾げている己の後輩を怒鳴りつけると、乱太郎は困ったようにまあまあその辺で、と乾いた笑いを漏らした。

「引っ掛かった私も私だから」
「いいえ!そんなこと言ったらこいつは反省しないでまたやるんです!その前に綾部、お前ちゃんと乱太郎先輩に謝れ頭下げろ謝罪しろ!」
「乱太郎先輩本当によく引っ掛かってくれますよねー。今度は僕が助けますからまた引っ掛かってくださいね」
「綾部ぇえええええええええ!!」
「はいはい分かりましたよ浦風先輩。乱太郎先輩すみませんでした。二度とやりますん」
「どっちだ!?あ、待てコラァ!」

 明らかな犯行予告を置いて、喜八郎はどこかへ行ってしまう。全く反省の色が見られないその様子に切れ、追いかけようとした藤内は乱太郎に呼び止められた。
 ぱっと振り返ると、乱太郎は困ったような顔をして足首の辺りをさすっている。その様子にまさか、と藤内は顔を青くして乱太郎の傍にしゃがみ込んだ。

「怪我なさったんですか!?」
「うん、ちょっと捻っちゃったみたいで…あはは、情けないねえ」
「そんなことないです、悪いのはこんなところに穴を掘る綾部で……あ、捕まってください」
「ありがとう」

 藤内は乱太郎に手を貸す。大したことはないと彼女は笑っているけれど、その笑顔に差した陰がその痛みを物語っていた。
 藤内は迷わず、乱太郎を横抱きに抱き上げた。軽い軽い、身体だった。これに驚いた彼女はばたばたと暴れ始める。

「い、いいよ浦風くん、ここまでしなくても!重いでしょう!」
「大丈夫です、それより先輩ちゃんと食べてますか?軽すぎです」
「私これでも大食いで…って、そうじゃなくて」
「良いんです、俺がこうしたいんです」
「あ、う……じゃあ…お願い、します」

 藤内が強く、こうしたいのだと主張すると、乱太郎は諦めたのかおとなしくなった。
 顔を真っ赤にして俯くその顔はとっても可愛くて、藤内の顔も熱くなってくる。

 渡り廊下をことことと進みながら、腕に感じる確かな温かさを心地好く、感じた。





 そしてたどり着いた保健室には誰もおらず、この段になってとんでもないことをしたと焦っていた藤内はほっと胸を撫で下ろしながら、乱太郎を長椅子の上にそっと座らせた。
 てきぱきと自分の足に包帯を巻いていく乱太郎の手伝いをしながら、藤内は先ほどから気になっていたことを聞こうとぽつり、呟いた。

「…あの、乱太郎先輩」
「なあに?」
「綾部のこと、名前で呼ぶんですね。保健委員の後輩じゃないのに」
「ああ、うん。実はね、喜八郎に名前で呼んでほしいって頼まれたんだ。だからそう呼んでるんだよ」

 さっき、喜八郎が現れたとき、乱太郎は彼を「喜八郎」と呼んだ。下の名前で、しかも、呼び捨てで。
 乱太郎は自分の委員会の後輩以外は呼び捨てにしないと数馬から聞かされていた藤内は、あいつは本当にちゃっかりしてるな、笹山先輩に言い付けてやろうかと思いながら、「特別」な呼び方をしてもらえる喜八郎が羨ましくもあった。
 差をつけられているようで悔しくもあった。

「……そうなんですか。あのっ、」
「なにかな、浦風くん?」
「あ、いや、そのっ…すみません、なんでもないです!そろそろ行かなくてはならないのでこれで失礼します!」

 しかしそんな「悔しいので俺のことも名前で呼んでください」なんてお願い、口にできるはずもなく。本来の目的である胃薬をもらうということも頭からすっ飛んでいた藤内は、慌てた声で礼を述べる乱太郎を振り返ることもできずに保健室を後にした。

 いつか、いつか自分も名前で呼んでもらえる日が来ればいいなんて思いながら渡り廊下を駆けていく。





 後日談として。自分が掘った落とし穴のせいで乱太郎が怪我をしたことが高等部の3年生二人にばれてしまい、それはもうきついお灸を据えられた喜八郎と、誰がどこから見ていたのか乱太郎を所謂お姫様抱っこしたことを問い詰められ、その出来事についての反省文を五千字以上で提出するようにと命じられた藤内と。

 そして、この前はありがとう、藤内くんと朗らかな笑顔で告げた乱太郎がいたということだ。


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 作法委員会は現代的に言うと風紀委員会でしょうか。委員長は兵太夫で副委員長が伝七です。
 越えなければならない壁が多いですねえ…頑張れ藤内!乱太郎先輩と恋仲になれるその日まで!

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