まずは諦めを捨てましょう



 その学園には可憐な一輪の花に喩えられる一人の女子生徒がいる。

 色素の薄いふわふわの髪につぶらな常磐色の瞳を持ち、大きな丸眼鏡に頬に浮かんだそばかすが特徴的な高等部3年3組の彼女、名を猪名寺乱太郎という。
 少女にしては随分と男性的な名を持っているが、その命名に至るまでの話をすると紙面がいくらあっても足りないのでここでは割愛する。はやとちりの命名者と大雑把な市役所員が原因とだけ言っておこう。

 さて、一輪の可憐な花に喩えられると言ったが、彼女は世間一般で言うところの美女や美少女といった顔立ちはしていない。十人並みより多少上、というのが一番正しい表現だ。
 しかしその顔に溢れる愛嬌や、見る者を必ず和ませると評判の笑顔が、咲き誇る花のように思われる。
 加えて、彼女は大層可愛らしい性格をしていた。誰に対しても分け隔てなく優しいというわけではないけれど、困っている人間を放っておけないところや、総じて面倒見が良いところ、時々突拍子もない発言をしたり、ドジを踏んだり、その照れ隠しで恥ずかしそうに笑ったり、明るく前向きなところも、彼女の可愛らしさを形成する要素であった。

 乱太郎先輩は一から十まで全部可愛いと言った後輩がいたが、彼が彼女に懸想しているという事実を差し引いても、すべての人間にその通りだと言わせる魅力を、彼女は確かに持っていた。


 己の心を寄せる相手を花に喩えるのは、恋する人間の一般的な言動であるが、彼女はそれはもうたくさんの人間から思いを寄せられていた。
 同級生や同学年の生徒は勿論、中等部・高等部それぞれの後輩たちや今は学園を去った先輩たちからも様々なアピールを受けている。
 同級生は毎日のように乱太郎を抱きしめにかかったり、放課後や休日の予定を取り付けようと必死だし、ふたつ隣のクラスの生徒は周りからはツンデレにしか見えないような絡み方をするし、隣のクラスの生徒はそんな彼らを3組と結託してこっそり排除して自分たちはちゃっかり彼女と楽しく話したり。
 高等部の後輩たちは何かにつけ彼女に会いに来て彼女の同級生や彼女が所属する保健委員の面々に追い払われる。
 普段は高等部と関わるチャンスの少ない中等部の後輩たちは、高等部に侵入を計りつつ、彼女と話せる少ない機会を無駄にしないために必死だ。

 しかし彼女はどんなに抱きしめられようが好きだと告白されようが目の前で赤くなられようが気付かない。
 同級生や保健委員たちが自分とお近づきになろうとしている輩を少々強引な手で排除していることにも多くの男子生徒に思いを寄せられていることも気付かない。


 この話はそんな彼女を振り向かせたい一人の男子生徒の涙と涙とそれから涙の物語である。




「あ、おはよう藤内」

 藤内はその声に振り返った。
 生徒の姿も疎らな朝の学園は、朝練中の部の生徒たちの上げる声が遠くで聞こえる以外には静かだ。
 しんとした昇降口で靴を脱ぐ友人に藤内は声をかける。

「おはよう数馬」
「相変わらず早いな。あ、なあ、お前英語の予習して…きてるよな、お前だし」
「勿論全教科してあるけど、お前英語の予習してきてないのか?」
「いや、今日当たりそうなとこが自信ないんだ。ちょっと見せてもらおうかと」
「別に良いけど…俺も一カ所自信ないとこがあるからなぁ」
「まあ、ちょっと確認するくらいだからさ」

 そうして上履きに履き替えた友人と並んで教室へ向かう。彼らが所属する1年3組の教室は1年棟の3階に位置している。
 二人は階段を上りながら、あの英語の教師は出席番号順であっても数馬のことを飛ばすのに難しい文に限って当ててくるとか、俺は今日数学当たりそうだとか、他愛のないことを話す。
 2階と3階の間にある踊り場に差し掛かったあたりで、藤内はそういえば、と気になっていたことを口にした。

「数馬、今日は早いんだな」
「ちょっと保健委員の集まりがあるんだ」
「…へぇ」

 友人の言葉に藤内はわざと気のない相槌を打った。
 保健委員というキーワードに食いつけば、数馬から冷たい目を向けられることを知っていたからだ。
 更にうっかり「彼女」の話を聞き出そうとしようものなら、その瞬間に保健委員会や3年3組を敵に回すことになるだろう。
 普段は気の良い連中だったり、頼りになる先輩である「彼ら」の本気を知っている藤内は心の中でため息をついた。




 もう一度だけで良いから、乱太郎先輩と話がしたい。藤内はそう思っていた。彼女とは一回しかまともに会話をしたことがなかったし、その時は上手く話せなかったから。

 自分がまだ初等部の生徒だったとき、一度だけ彼女に怪我の手当てをしてもらったことがある。
 膝から脛にかけての広範囲を赤く染める擦り傷を丁寧に、優しく治療してくれた彼女の笑顔を、藤内は七年経った今でも忘れることができない。
 痛くて痛くて仕方なくて、普段は肌色をしている足をほとんどが赤が支配していて、もしかしたら自分は死んでしまうんじゃないかと不安に思っていた自分に、彼女は笑いかけてくれた。

『大丈夫だよ、絶対大丈夫だからね』

 今思えば、それは何の根拠もない言葉のようにも思える。でも、その言葉は、ふにゃりと細められた常磐色の瞳は、藤内に安心をくれた。




 多分、その瞬間からだった。

 藤内は、乱太郎に恋をした。




 しかし彼女は当時から人気のある人だった。
 ちゃんと話すことも礼もできず、名乗らず別れてしまったことを何度悔いただろう。いつも誰かが傍にいる彼女に近付くことはとても困難で、名前を知ってもらう機会を得ることはおろか挨拶すらままならない。
 せめて名前くらいは知っておいてほしい、あの時ろくにできなかったお礼をきちんとしたい、遠くから見つめるだけじゃなくて、向かい合って話がしたいと思うのだけれど。

 でも、それは難しそうだ、と藤内は1年3組の教室のドアを開けた数馬を見て思った。

(ガードが堅すぎるんだよな…保健委員の)

 乱太郎に近付く男がすべて下心を持つ輩に見えるらしい(実際そうなのでこちらは何も言えない)保健委員のガードは鉄壁だ。
 下手を打って保健委員に、特に川西先輩、数馬に睨まれるようなことになったら……。

 あの二人怖い、お近づきになれるなんて夢のまた夢だと考えていた藤内は、何故か教室の入り口で立ち止まった数馬にぶつかりそうになり慌てて止まった。

「……えっ?」
「危ないな、いきなり立ち止まる、な……えっ?」
「あ、来た来た。おはよう」

 誰もいない教室の窓際に寄り添って笑顔でこちらに手を振っているのは、彼女だった。
 何故ここに乱太郎先輩がとか、自分たちが教室を間違えてしまったんだろうかとか、え?乱太郎先輩?え?幻?とか、混乱する藤内の横でいち早く立ち直った数馬が彼女に近付いていった。

「お、おはようございます。あの…乱太郎先輩どうしてここに…」
「数馬の迎えに来たんだよ。でも誰もいなかったからちょっとだけお邪魔しちゃった」

 やっぱり3階は眺めが良くていいねぇなんてのほほんと言う乱太郎に、数馬は迎えってどういうことですかと拗ねたように言った。
 だって数馬は不運じゃない、保健室に来るまでに何かあったら大変だと思ってと続ける乱太郎の言葉を受けて、そんなこと言ったら僕は先輩の方が心配ですと数馬は返す。
 彼女はそれはそうかもしれないけどと頬を膨らませた。可愛らしいその表情に、数馬がひっそり顔を赤くしたことに乱太郎は気付いていないようだった。

 ようやく復活した藤内はずいぶんと気安そうな二人の様子を見て、自分も挨拶をしようと開きかけた口をつぐんだ。
 相手は先輩なのだから挨拶をしなければ印象が悪くなってしまうのに、藤内が口を挟むことを許さない雰囲気がそこにはあった。というか数馬がそうさせないという空気を醸し出している。
 とりあえず自分の席に行こうと足を向けると、話していた二人は保健室へ向かうことになったようで、入り口の方へ向かっていく。
 せっかく、こんな近くにいられるのに何もできないなんて。ずっとずっと、焦がれていた彼女がそこにいるのに。

 楽しそうに話している二人の様子を背中に感じながらため息をひとつついた時だった。




「あ、そうだ…浦風くん」




 一瞬、聞き間違いかと思った。
 驚いて振り向いた藤内は、悪戯っぽく笑っている乱太郎が、自分を見ていることに気付き、頭が真っ白になる。
 あれ、ごめん、違ったかな?と困った顔を見せた彼女に、慌てて藤内は返答した。

「違わないです、そうです俺、浦風です!」
「よかったぁ。…あ、あのね、勝手に教室に入っちゃってごめんね。あと…このこと、内緒にしておいてくれると助かるんだけど…特に兵ちゃんには」
「あ…そんな、えっと、はい!誰にも言いません!」
「ありがとう、浦風くん」

 じゃあ、またね。そう言って去っていった彼女の笑顔は、七年前のあの笑顔と少しも変わっていなかった。


 やっぱり、好きだなぁ。
 乱太郎の背後で友人が見せた色々篭められた視線を思い返しながら、藤内は思う。
 先輩や友人は怖いけれど、でも、実際に会って久しぶりに言葉を交わして。しかも奇跡的に名前まで知っていてもらえて、何か、力が沸いて来るような気がした。

 そして諦めを、捨てる時が来る。


_ _ _ _ _

 左近と数馬も恐ろしいでしょうが、きっと一番怒らせてはならないのは伏木蔵さんかと思われます。
 まだ中一の伊作は多分乱ちゃんときゃっきゃするのに忙しいのでまだ恐ろしい存在ではないかなと。まだ。あくまで、まだ。

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