飛び降り自殺でもするつもりなのかと、丸まった背中を見つけたとき心臓がどくんと一回おおきく脈打った。手から落ちたアイコスがコンクリートにぶつかり、その音で私に気がついた男の人がこちらに振り返る。伸びた前髪から覗く目は疲労の色に満ちていて、夜の暗さも相まって吸い込まれてしまいそうだった。静かに横たわるアイコスを拾い上げ、屋上の扉を閉める。喫煙室が開放されていれば迷わずそちらを使ったのに、残念ながら2時間前に閉められてしまった。これだから残業はいけない。苛立ちの連鎖を断ち切るために手にした煙草は、残り1本だった。

「苗字さん、まだ残ってたんですか」

先客である観音坂さんの言葉に頷き隣に並ぶと、転落防止のフェンスに寄りかかっていた彼がじっと私の手元を見つめる。

「煙草ですよね?俺のことはお気になさらずどうぞ」
「あ、はい、ありがとうございます」

お言葉に甘えてスティックを口に咥える。観音坂さんに倣って夜の街並みをぼんやりと眺め、残っている仕事、帰りの電車の時間、冷蔵庫の中身、乳液と化粧水の残量、不在票の有無、色々なことを考えている間に、私のメンソールはあっという間に寿命を迎えた。いまいち吸った気にならないというのは本当で、しばらくご無沙汰であるセッタの味を恋しく思う。ごちゃごちゃと考え込む私とは対照的な観音坂さんは何をするでもなく、体だけをここに残して心をどこか遠くにやってしまったみたいだった。

「観音坂さんも残業ですか?」

沈黙を苦痛に思った私の、その場凌ぎの愚問だった。ゆっくり瞬きをしたあと、心を取り戻したように観音坂さんが返事をしてくれる。

「残業、まあ、そうですね。いやでも、本当は残ってするような仕事ってわけじゃなくて、明日のこと考えると今終わらせておく方がいいかな、みたいな感じですかね。早く終わらせると次の仕事を前倒しで頼まれるだけなのに、損してるなって思います」
「凄いですね。私なんて、明日のことは明日の自分に任せっぱなしですよ。そんな余裕ないです」
「余裕というか、迷惑がかからないようにって。明日も俺が生きてる保証はないですからね」
「……観音坂さん、飛び降りでもするつもりでした?」
「まさか、そんな勇気ないですよ……」

弱々しい観音坂さんの笑顔はなんだかぎこちなくて、目の下に滲む隈がやけに痛々しく見える。観音坂さんに勇気がなくてよかったと思いながらポーチにアイコスを仕舞い、濁った夜空を見上げた。人工の光に負けまいと瞬く星が、ひとつだけ流れる。

「あ、」

声を上げたのは観音坂さんで、少しだけ見開かれた目はきっと私と同じ流れ星を見ていたと思う。何かを思い出したようにフェンスに掛けていたジャケットを羽織ると、扉の方へと向き直った観音坂さんが私にぺこりと頭を下げた。

「すみませんが、お先に失礼しますね。苗字さんもほどほどに」

返す言葉を探してるうちに、彼は足早に扉の向こうへと消えてしまう。一人になった途端、口の中のメンソールがなんとも虚しく思えてきた。それを誤魔化すようにフェンスに凭れビルの下を覗くも、私もここから飛び降りる勇気はないなあと、手の震えがおさまるまでぎゅっと目を閉じる。踵をきちんとパンプスの中に戻し、恐る恐る目を開けると、鞄を片手に持った観音坂さんが夜のネオン街へと走って行く姿が見えた。その姿が先ほどの流れ星と重なるも、あっという間に見えなくなり、私はなんて馬鹿なことを考えていたのだと自分で自分の額を小突く。飛び降りようとしていたのは私の方だった。でも、人生最後の煙草はやっぱり、セッタがいい。それに、観音坂さんのぎこちない笑顔をもう一度、今度は明るい日差しの中で見てみたいと思った。その思いを3回唱え、流れ星のような観音坂さんに祈ったのだ。


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