「孝介くんは、大きくなったら何になりたい?」
やわらかくて優しくて、暖かくていいにおいのするお姉さん。
たぶん、ずっとずっと、大好きだった。
五つ年上の名前さんは今年短大を卒業した。
初めて名前さんに出会ったのは小学生のとき。名前さんはまだ中学生。
「孝介くんは野球が大好きなんだね」
にこりと笑って俺の頭を撫でた名前さんに、俺はなんと返したのだろうか。あるいは、何も言わなかったのかもしれない。
ただ、確かにあの頃は、野球が何よりも大切だった。暗くなるまで泥にまみれて白球を追いかけてた。果たしてそれから8年近くたった今現在、その気持ちが変わってしまったかと言うとそうでもないが。
でも、年月は、体だけでなく心も成長させる。そういう意味では、野球が一番に大切なものだとは言いきれないのもまた事実だった。
名前さん。
名前さんのこと好きになっていい?
そう問いかけたのは、彼女が高校生になったとき。
名前さんは何と答えたか、それは鮮明に記憶に残っている。「孝介くんにはもっと優しくてかわいらしい子がお似合いだよ」
なんで?どうして?
俺には名前さんしかいないのに。
そしてそれからしばらく名前さんには会わなかった。
会わなかった、と言うよりは、会ってもらえなかった。活動的な人だったから、忙しかったのもあったのだと思う。俺も野球に夢中で、そしていつしか時は流れ、俺は中学生になっていた。
久しぶりに会った名前さんは、前よりさらに綺麗になっていた。
頑張って、ずっと行きたかった大学に入学できたの、これからは昔みたいに、また会いに来るからね。
うれしくてうれしくて、何とか話がしたくて、試合があるから、レギュラーだから、見に来てと。何度も頼んだ。きっと忙しかっただろうに、時にはバイトを休んで見に来てくれたこともあった。
それから、もっと、もっと、時が流れて。
俺は高校生になって、名前さんは社会人になって。
今でも名前さんは俺に会いにくるし、俺は名前さんに、試合を見に来てと頼み込む。
何も変わってないけれど、心地よくて。やっぱり俺は名前さんのことが好きで。
今日も、名前さんに会いに行く。
「いらっしゃい、孝介くん。待ってたよ」
ふわりと香る甘い匂い。なにこれ、と小さく呟くと、マドレーヌだよ、と返された。
「マドレーヌ?何で?」
「だって孝介くん、今日誕生日じゃない」
どきっとした。誕生日を好きな人と過ごしたい、だなんて、そんな女々しい考えを見透かされてたようで。
「孝介くんは甘いものがあまり得意じゃないみたいだし、マドレーヌなら一口サイズだから平気かなって思って」
そんなことまで考えられてた。この人は本当によく気が利く。ちょっとうれしくて、でも、ちょっと悔しい。俺が、まだまだ子供みたいで。
きれいに整頓された室内に、甘く香るその匂いは、嗅いでるだけでおなかがいっぱいになりそうだった。幸せすぎて。
「はい、焼きあがったよ。どうぞ」
「・・・・・・いただきます」
パクリ、とかぶりついてみる。
匂いの甘さの割には糖分は控えめで、しっとりとした優しい味がした。名前さんも舐めたらこんな味がするのかな、なんて考えて、少し頬が緩む。
「孝介くん、あのね、私、ずっと考えてたの」
「なにを?」
「孝介くん、昔、私に聞いたでしょう?覚えてるかな」
名前さんのこと好きになっていい?って。
どくん。どくん。心拍数が急上昇した。ついさっきまで、そのことを思い返していたから。顔が火照るのが分かる。
「あの時私は、孝介くんにはもっとお似合いの子がいるよ、って答えた」
「・・・・・・・そうですね」
「あ、覚えてたんだ?恥ずかしいなぁ」
自分から覚えてるかななんて聞いてきたくせに。悪戯っぽく笑うその人に、本当にもう20を超えた人なのかと疑わしく思ってしまう。
「今、もう一度返事をしてもいいかな」
ちゅ、と言う小さなリップ音と、頬に湿った感触。
え、と思って名前さんの方を向くと、少しうつむきながら小さく笑って、言った。
「私のこと好きになっていいから、私も、孝介くんのことを好きにならせて」
もう、マドレーヌの味なんてわからなかった。
マドレーヌ以上に、名前さんは甘かったから。