子供だと思っていた。
神様に愛され、温かい繭の中で体を丸めたまま、生まれるときを待っている子ども。
実際、七海春歌は美しく孵化した。極彩色の羽をゆっくりとひろげ青い空を舞うつもりだったのだろう。それを夢みていた。神もそれを祝福した。まさかこんな利己的で傲慢な男のいる薄暗い場所で、羽根をむしられることになるなんて知らずに。


「あなたの全部がほしい」

大人だと見上げ続けていた。
光を背負い、見るものを惹きつけずにはいられない背中と、鋭いくせに寂しがりやな瞳を、ずっとずっと背伸びして見上げていた。その目に映りたくて、わたしという存在を認めてほしくて何度も鍵盤を叩いた。彼の心にぽっかりと空いた悲しみすら食いつくそうとして、内心舌なめずりするほどの独占欲を抱くことになるなんて知らずに。


強引に引き寄せられて施されたくちづけでは、まだ足りないとワイシャツの背中に爪をたてた。答えるように後頭部にそえられた骨ばった手に力が込められ、無理やりのけぞらせられた背中がきしんだ。空気を吸うために一瞬だけ離れた唇を追いかけ、歯をたてると更に激しく、あちらから舌で荒らすように乱され驚く。反射的に一歩下がろうとすると、苛立たしげに阻まれ互いの歯がぶつかった。

「お前が欲しい」

ひどく凶暴的な感情をつねに腹の底にいだいて、それでも上手く肌の下に隠していた。
痛ましいほどの震える感情をぶつけ合って、ようやく、二人はあることに気がついた。
神に愛されようが、王様だろうが関係ない。自分たちはただの、男と女なのだと。




視界で捕らえうる水平線を、風になでられた若草が埋め尽くしていた。
どこまでも続く丘で、幼い春歌は蝶を追いかけていた。ああ夢だと思い、夢の草原の中ではしゃいで駆ける幼い自分を第三者の視点で見つめていた。

(あ、)

こける、と思ったときには、幼い春歌は白いワンピースをよごして、こてっと躓いていた。ぺしゃりと体を草原につけたまま、もぞもぞと体を起こし、座り込んだまま瞳をうるませる。そして火がついたように泣き出した。だだっぴろい草原ではその声も届かない。痛ましいほどに泣いて、泣きつかれた春歌は赤くなった目もとをこすり、その場に寝そべった。

(いつも、こんなとき、おばあちゃんが)

少しだけ外していた視線を戻すと、幼い自分は祖母の膝のうえに乗せた両腕を枕にして寝息をたてていた。祖母のしわくちゃな手は、春歌の髪をいとおしそうに撫でた。
思い出の風景とすこしだけ違っていると気がついたのは、眠っている春歌の肩に白い蝶がとまったときだった。羽根を休めるように、ゆっくりと羽根を二度三度はためかせ、ぐるりと触覚をまわした。

「春歌さん」

耳元でささやかれ、びくりと振り返ると誰もいない。
二度三度あたりを見回し、一歩下がったところで、幼い春歌の肩に止まっていたはずの蝶が自分の隣でひらひらと舞っていることに気がつく。

「ねえ、お城へいってみませんか」

お城?そう、お城と言いさし、蝶はすこしだけ上を仰ぎ見たように見えた。つられて視線を上げる。刷毛でぬったような青空を区切り、石で詰まれた灰色の城壁が丘の上にそびえ立っていた。

「ほら、ついてきて。わたしが案内します」
「あなたが?」

すると蝶は自嘲気味にひらひらと羽ばたいた。「実は、わたしはお城にいたのです」

「ですが、神様に呼ばれてしまいました。いかねばなりません」
「だから、とびきり素敵な旋律を奏でる指をお持ちの、とびきり可愛いお嬢さんを、あいつに会わせてあげたいと思ってね」
「あいつって?」

会ってみればわかります、と蝶は酷く興奮したように語った。誰からも視線を注がれ、光を浴び続けている。そして哀しいくらいに孤独な男。
春歌は足を踏み出しながら、ちょっと怖いなあと肩を震わせた。蝶が、大丈夫だというようにひらひらと笑う。実は寂しがりやで意地っ張り。それを隠すために、わざと強がっているような、まあつまり格好つけている男なんですよと内緒話をするように春歌の耳のよこで羽根を羽ばたかせた。うふふ、と春歌は頬をほころばせる。

「わくわくするなあ。お嬢さんの旋律と、あいつが出会う。そして、想像もつかないような、とても素敵なことが起こる!」

門番をかいくぐり、しばらく歩いた。そしてひときわ高い豪勢な扉に春歌が手を添えたとき、ぽたりと蝶は落ち、目からは光が失われた。一瞬だった。春歌はひどく狼狽した。取り乱し、大理石の床で事切れた蝶に涙を落とした。まって、わたしはあなたに聞きたいことがたくさんあったの。あなたと「あいつ」について話したかった。歌について話したかった。もっともっと、たくさんのことを。
両手で顔を覆い、ぺたりと両足を床につけ春歌は泣きじゃくった。
しばらくして、なんだ、うるせえなあと不機嫌な声がして扉が開かれた。
扉の向こうから差し込む強烈な光が、春歌の目蓋を焼いた。




ここで夢は終わる。
夢から覚めた春歌は窓から差し込む光が目蓋をつらぬいていることを知り、慌てて起き上がった。起き上がった春歌が慌ててシーツをかき寄せたとき、寝室の扉が開いた。
おはようと交わされる挨拶に、おはようございますと律儀に返し、彼がいつものスーツではなくショッピングモールで買ったカットソーにジーンズをはいているのに目を見張る。今日はお休みでした?と首をかしげると、ああ、有給もぎ取ってやったと苦笑して隣に腰を下ろす。
ああ、朝ごはん作らなきゃと慌てる彼女はまだ知らない。
彼のはいているジーンズのポケットに、キッチンの古いコーヒーメーカーの裏に彼が隠していた小さな箱が入っていることを。そしてその中に、小さな宝石の乗ったリングが入っていることを。
そして彼女がそれを差し出された瞬間、紡ぎ出す彼女の声が、彼女が作り出したどんな旋律より美しいのだと、彼が気づくことを。









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