一日、二日。文字通り指折り数えて待ちわびた五日目は、生憎の天気だった。
空に広がる薄墨はやがてもくもくと厚い雲を生んで、そこから冷たい雨を降らせていく。静かで薄暗く、つめたい景色。まるで水のなかにいるようだと、小さく息を吐いた。

「!」

閉じられたドアの向こう側、空気が変わったような気がした。やわく、温かく、どこまでも優しい。チャイムが押されるのを待たずにドアを開ければ、待ちわびた来客。びっくりしたように瞬きを繰り返す瞳に口元が緩むのを感じながら、細い腕を引きそのまま自分の胸に迎え入れた。

「―――おかえり、春歌。」

ドア越しでもなく、マスクなんて無粋なものも外れた春歌。
風邪をひいて一週間、感染予防で一週間、全快までに五日間。およそ一ヶ月近く、まともに会えなかった大好きな奴。だからなのか、無性に嬉しくて、恋しくて、しあわせで。まるでようやく母親と再会出来た子供みたいにぐりぐりとその首筋に顔を埋めた。

「……翔くん、」
「んー?」
「―――ただいま、戻りました。」

戸惑うように背中へ添えられているだけだった手がしっかりと意思を持って抱きしめ返し、それから先程の自分をなぞるように首筋へ擦り寄って来る。同じことをしている筈なのに春歌のそれはまるで仔猫が甘えて来るようで、どこか甘くくすぐったかった。

「ずいぶんと待たせてしまいました」
「おう、待った。すっげぇ待った」

ぴったりくっついていた身体を少しだけ離して、焦点が合うギリギリの距離でその陽だまりいろを覗き込む。申し訳なさそうな声とは裏腹にその瞳には喜びがにじんで、溢れていて。堪らない気持ちになって、でも焦りたくはなかったから。へらりと笑い顔をつくったあと、そっと互いの額を合わせた。

「ん、当たり前だけど熱くねぇな。あったけぇ」
「翔くんも、あったかいです」

じゃれるように、そのまま鼻を擦り合わせればくすぐったそうな笑い声が唇を撫でていく。

「春歌。はーるか」
「ふふ、…はい、翔くん。」
「……やっぱ、お前にそう呼ばれんの好きだな。春歌、もっかい」
「…何度だって、呼びます。翔くん」
「―――……サンキュ。」


知らなかった、自分の名前がこんなに特別に響くこと。
解っていなかった、ただ“待つ”ことがどんなに心細く寂しいかということ。


「俺、ずっとお前にこんな思いさせてたんだな」

思えば、いつだって春歌を待たせていた。それはかつて弱かった心臓のせいで、日々着実に増えていく仕事のせいで。離れている間、その時だって寂しくなかった訳じゃない。だけど今回、初めて俺が“待つ”側になって。心細くて、不安で仕方なかった。

「……ごめんな。それから、ありがとな」

一体何度、寂しい思いをさせたんだろう。心細い夜を一人過ごさせたんだろう。
泣き虫で、その癖甘えるのが下手なこいつはどうやって、こんな気持ちを仕舞い込んで来たんだろう。

「……何つうかさ。仕方ないことだとしても、やっぱ大切にしてぇ奴が辛い時、傍にいてやれねぇのはキツい」

金属のドア一枚に隔てられた先で咳が響く時、微かに漏れ聞こえるピアノの音が途絶えて久しい時。どうして自分はこの向こう側に行けないのかと、何度も歯痒い思いに襲われた。
だって知っているのだ。寝込んでしまうくらい辛い時、咳が止まらず涙まで出てしまう時。まるでこの世界に独りぼっちにされたようなさみしさに襲われることを、ずっと昔から。

「……よし、春歌。甘えろ」
「……はい?」
「徹底的に、全力で、存分に俺に甘えろ。」

俺もお前に甘えるから。
ゆるく両手を広げてそう言えば、春歌はぱちぱちと瞬きを二三度した後、嬉しそうに笑って見せた。

「……では、王子さま。私に腕枕をして頂けませんか?」

自分にとってはどんなに消し去りたい黒歴史であろうと、やはり春歌には大切な思い出のようで。にっこり笑ってねだられたなら、頷く以外の選択肢なんて消え去ってしまうのだ。

「喜んで。…こっちに来い、春歌」

素直に飛び込んでくる身体ごとごろんと寝転がって、心地よい重みを腕に迎えた。


「なぁ、俺さ。こないだ夢見たんだ」
「夢…ですか?」
「そう。今よりずっとチビで、体も強くなかった頃の夢でさ。薫と近所の子と三人で宵宮に行こうぜって時に、俺は例のごとく発作起こして留守番になっちまってさ」

留守番の寂しさより宵宮へ出かけた薫が羨ましくて。だからか次に目を覚ました時、俺は不思議な体験をしたのだ。

「呼ばれた気がして目を覚ましたら、お前によく似た女の子が座ってたんだ」

大丈夫だよと宥めるように、そろそろ起きてと甘えるように、俺を呼ぶ声の主。
思い返す程にあの子の表情は腕の中の春歌と重なるものだから、少しくすぐったくて。

「着物も帯もおんなじ朱色でさ、ひらひらした帯がひれみたいに揺れてたんだよ。だから金魚みてぇって思ってさ」
「金魚、ですか」
「おう」
「………ねぇ、翔くん。きっと、その子は」

ふわふわ。夢の中のあの子が浮かべていた、春歌の癖である笑みが浮かべられた。

「翔くんに会いたくて、翔くんの夢にお邪魔したんですよ。本当は会いたくて会いたくて仕方なかったのに、会えなくて…寂しくなってしまって、会いに行ったんです」

ああ、やっぱり。夢の中の俺が呼んでやりたかった、手を取ってやりたかったのは春歌だったのだ。

「……翔くん。この先、お仕事で会えなくなったり…離れている時間が続いたら、また翔くんの夢にお邪魔します。夜を泳いで、会いに行きます」

でも、いまは。
小さく、独りごとを呟くように落とされた言葉と同時に首に腕が回され抱きつかれる。

「いまは目の前の、触って、声が聞ける翔くんに甘えても良いでしょうか……」

珍しく積極的な言葉と、反比例するように真っ赤に染まっていく春歌の耳と首筋。ああまだまだ甘えるのが下手なんだなと、苦い笑いと共に甘い欲が込み上げる。
他の連中の、誰も知らない春歌の表情。それが今、俺だけに向けられているのだ。

「……良いに決まってるっつぅの。お前は俺の家来じゃなくて、たった一人のお姫さまなんだからな」


ひっそりと、思う。どうかこいつがこの先も、自由に泳いでいられますように。そんなこいつを見つけられる、唯一の俺でいられますように。
こいつの息が苦しくない場所が、俺の隣でありますように。







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