いっそ彼が酔っていたなら、どれだけ良かっただろう。回るアルコールのせいだと誤魔化して、まず性別が違いますからねなんて笑って、何もなかったことにしてしまえたのに。
袖から伸びた手は今だ私を捕まえたまま。けれどそれ以上何かを強いることも出来ずに、かなしい温度だけを伝えてくる。


(―――かみさま、)

誰かに言いたくて、聞いて欲しくて堪らない言葉はいつも喉の奥につっかえてしまった。伝えたくて、知らせたくて仕方なかった沢山の感情は、私の中で冷たく沈んでいく。
音楽が、わたしのすべてだった。歌が、わたしのひかりだった。
嬉しいことも楽しいことも幸せなことも、悲しいことも辛いことも全て五線譜に吐き出してきた。文字に変えられないのなら音符に、言葉に出来ないなら旋律に。そうしてようやく私は、この世界で息が出来ていたのだ。


(―――かみさま、わたしは、あなたをうらぎりました。)

あなたが与えてくれた音楽を、歌を、この人の為だけに紡いでいたいと願ってしまった。
誰より最初に私を見つけ出してくれたあなたよりも、彼を愛してしまった。
罰なんでしょうか、過ぎた願いだったんでしょうか。


「……春歌」

まるで壊れものに触れるみたいに私を呼ぶ、このひとの唯一になりたい。

「…わたしは、」

音楽だけで満たされていたあの頃にはもう戻れない。
今、何よりも望むその場所へはきっと、私の歌を連れては行けない。
たとえば私の全部をさらけ出して詰め込んだとしても、それはきっと『あのひと』のそれのようには輝けない。私には歌しか、音楽しかないのに。一番届けたい人には、決して響いてはくれないのだ。


「わたしはずっと、逃げていました。」

かみさまに愛された証を捨てて、ただの子供のわたしになって。伝えたい、知らせたい感情をすくいあげて。言いたい、聞いて欲しい言葉をきちんと私の、私だけの形に、して。
そんな当たり前から逃げ続けていた。ずっと、自分を守ってくれるひかりの―――音楽のなかに、座り込んでいたのだ。


「……こくはくを、聞いていただけますか」

今伝えるべきなのは世界を彩る為の音じゃない。ただの「七海春歌」の私が吐き出す、声だ。そうして初めて私はきっと、このつめたい手を握り返すことが出来る。
ゆるゆると上げた視線の先には、覚悟を決めたようないろが在った。促すように、瞬きをひとつ。


「…わたしは、あなたの傷にさわりたい。癒してあげたいだとか、包んであげたいなんて気持ちに酔う一方でずっと、ほんとうはその痛みにさわりたかった」

あのひとの残した光はあまりにも強くて、それは今なお彼の胸の内で褪せることなく輝き続けている。かわりになれたら、せめてかわりに近い存在になれたら、なんて願いながら本当は。それが到底叶うことのない願いなんだと解っていた。

「だって私は、その場所を埋めてあげられない。満たすことなんか、出来ない。その癖、そこに触れないままでいることも出来ないんです」

色を失くし、時間を止めてしまった彼の一部。共に過ごすうちにすっかり欲張りになってしまった私は、そのかなしみごと彼を欲しいと願ってしまったのだ。

「あなたの全部が欲しい。仕舞い込んだ孤独も暴いて、ぜんぶ私のものにしてしまいたい」

わたしをみて。わたしのこえをきいて。さわって、だきしめて、たしかめて。
もっと、わたしを。わたしだけを、ほしがって。
ねぇ、おうさま。そのひとみを、てを、こえを、こちらにむけてくださいな。


「―――……」

向ける視線は、これ以上ないというくらいに真っ直ぐで汚れなんざ知らない癖に。
吐き出す言葉はエゴに塗れて、触れた場所から焦がす程の熱情を秘めていた。普段の春歌からは想像もつかないような、一方的で凶暴な感情。それが今、自分だけにぶつけられている。その事実が、現状が。夢のようにくるしくて、しあわせだと感じていた。


「……俺も、お前に言わずにいたことがある。」

こいつはあまりに幼くて。その世界は、未知に溢れていた。
全てをぶつけてしまえば、嫌になるかもしれない。その重さに押し潰されてしまうかもしれない。今更譲れも手放せもしないのに、全てを投げ出すことを恐れ続けていた。
二人を知ってしまったから怖いのだ。引きちぎられるような喪失はもう、十分だった。


「………もう、ひとりはいやなんだ」

一体どれほどの人間が、その目から世界を観たいと望むだろう。
その耳で世界を聴き、その手で触れ、確かめたいと欲するだろう。
そんなことを考えずにはいられないほどに春歌は特別な、選ばれた存在だった。


「沢山なんだよ…てめぇ一人で立ち続けるのは」

たとえ春歌が望まずとも、世界が―――こいつを最初に見出した神様だとかそう呼ぶ何かが、こいつを呼んで、連れて行ってしまう。いつか来るだろうその日を繰り返し夢想しながら、心は諦めきれずに叫び続けていた。その名を呼び、手を伸ばし続けていた。

「お前が欲しい。……お前に、居て欲しい」

誰よりも近くに。俺すら知らない俺を、お前だけに解っていて欲しい。

「……くれてやるさ、丸ごとな」

お前がこの手を取るというなら。この腕の中を選んでくれるというのなら。沈み込んだ物思いを、情けなく震える痛みも全て引き受けるというのなら、俺は。
吐き出した言葉とは裏腹に、その細い身体を引いて唇に噛みついて。咀嚼して、嚥下して、その全てを奪い尽くすように、食んだ。欲しかったのだ、ずっとずっとずっと。優しさの薄皮を剥いだ先にある、暴力的なその感情をぶつけられるこの瞬間を俺は、待ち続けていた。




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