「春歌」

反射的に手を重ねたのは自分のほうなのに、胸に飛び込まれたのには心底、驚いた。
目を白黒させていると、ぎゅううう、と背中にまわした手の力を強めてくるので思わず唇に苦笑を溜め、小さな背中を撫でながら息を吐いた。ずびずびと鼻をすする音がする。あとでシャツ洗濯しなきゃなあとめぐらせる。そのくせ顔は、先述のとおり緩みきっているので世話はない。

「どうした、泣き虫春歌」

わざと茶化して覗き込むと、誕生日は?と聞かれた。六月九日、と答えると、血液型だの好きな食べ物だの双子の弟の名前だの矢継ぎ早に聞かれ、最後に、「翔くんだ」と呟かれた。

「本物の、翔くんです……」

瞳を潤ませて、そっと胸に頬をすりよせてくる。
気づけば、玄関のドアに華奢な背中を押し付けていた。
いた、と小さく声をあげた春歌が驚く前に乱れた髪を地肌にそってかき上げてやる。現れた白い頬、その下で、しょうくん、と夢のなかと同じトーンで紡ぐ小さな唇をふさごうとしたところで、固まった。突然動きを止めたこちらに春歌は目を丸くした。翔くん?と覗きこんでくる頬を、むに、と両手で包み込む。「忘れてた」

「マスクしてたな、俺たち」

ぽかんと陽だまり色の目を丸くした後、そうですねえ、と目を細めた春歌はこちらの頬にも手をよせてきた。

「マスク星人です」
「マスク星人なあ。で、マスク星人はどこから来たんだ?」
「遠い彼方、銀河の向こうからです」
「何のために?」
「マジンダーを倒すためです」

ぶわっは、と噴出した翔は背中をまるめ心底おかしそうに腹を抱え、げらげらと笑った。

「マジンダーか。そりゃあ強敵だ」

なんてったって、日向龍也演じるマジンダーだぜ、と目じりを人差し指でぬぐいながら笑う翔に、春歌は、がお、と怪獣のようなポーズをとってみせ、それがさらに翔の笑いを誘う。流れる空気が懐かしい。二人しか紡ぎ出せない空気だった。

「ところで春歌、」

とクリーム色のソファに背を深く埋めた翔が、キッチンでコーヒーを淹れている春歌のほうへ背をよじった。背もたれに肘をのせ、春歌が差し出すマグカップを受け取りながら、おー、サンキュ、と微笑む。春歌もつられて隣へ腰を下ろした。

「あとどれくらいで、マスク星人は普通の来栖翔と七海春歌に戻れるんだ?」

そうですねえ、とマスクをした口元に軽く握った右手をそえ、(これは春歌が考え事をするときの癖だ)「あと五日待てば、完全に戻れるとお医者さまはおっしゃっていました」と続ける春歌を、人差し指でひょいとマスクを下げ、カップに口をつけながら盗み見ていた。

「「早く人間になりたーい」」

全く同時に呟いて、目を見合わせる。
そして全く同時に、吹き出した。

「思考回路が似てきましたな、春歌さん」
「ふふ、そのようですな、翔さん」
「まあ、なんだかんだで結構たつしな、俺たち」
「早乙女学園に入学して、それから翔くんの家来にしてもらって、」
「だーーーっ!」

突然立ち上がり「それはもう言うな!」と手を振ってくる。春歌はぽかんとして首をひねった。

「どうしてですか?だってわたし、あの時翔くんの家来にして貰えなかったら」
「いや、なんつうかその、」

微妙な表情で頭をガシガシとかき、あー、と天井を仰ぎながら、今考えると結構な黒歴史だなこれ、などと訳のわからないことをぶつぶつ言っている。

「へ?」
「いや、だってお前、才能もずば抜けてたし結構な天才肌だったのに、俺、お前のこと家来だとか言ってたんだなあと」
「わたしはそんな、」

「それに何よりさ、」と言葉を飲み込んで、ふうと中腰になり、春歌と目線を合わせた。

「彼女になる女のこと、家来なんて呼んでたんだぜ?」

これ以上真剣な表情はない、と言った顔で神妙に眉をひそめてくる。「あ、笑いやがったな」

「えへへ、笑ってませんよ」
「うそ言え、マスクで口隠れてるからって誤魔化されないからな」
「ばれちゃいました?」
「ばれちゃいました。」

あ、じゃあそろそろ俺いくわ、と腕時計に目を落とした翔を玄関先まで見送った。

「春歌、五日後、空いてるか」
「五日後ですか?ええと、空いていますよ」

うし、っと玄関先でガッツポーズした翔は、「ぜってぇ空けとけよ」とマスクの上の瞳で念を押した。はい、と少し気おされた春歌をぐっと抱きしめる。

「キスできねえから、これで五日我慢する」

ぎゅううう、と春歌が苦しくなるほど抱きしめたあと、春歌の頭をわしゃわしゃと撫でた。

「わ、わ、何するんですか!」
「お返しだ。さっきの」
「お返しって・・・!もうっ」

ぽかぽかと胸をかるく叩いて、春歌が乱れた髪を手でとかしつける様子に笑う。

「じゃあ、あとで連絡するな」

はい、と目で微笑んだ春歌が、あ、と声をあげた。

「ん?どした」
「どうもこうもねえよ馬鹿野郎!」

バシン、と後ろから突如表れた黒いバインダーが翔の脳天を直撃した。
いってえと頭を押さえながら振り返ると、そこには。

「おい来栖。うちの有能な作曲家と玄関先でいちゃつくたあいい度胸だよなあ、ああ?」
「うお!噂をすれば、マジンダー!」
「何がマジンダーだ!」

と首下を羽交い絞めし、ぐりぐりと頭を拳で押し込める(けれど顔は愉快そうに笑っている)恩師に礼をして、春歌は扉を閉めた。五日後、予定あけとけよーと叫んだ声が聞こえて、今度こそ春歌はふふ、と笑った。



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