『しょうくん』

今では随分と耳慣れたその愛称は、当時の自分には馴染みが薄いものだった。一番身近な弟の薫は自分をちゃん付けで呼んだし、周りの子供もそれに倣うように翔ちゃんと呼んでいた。親を始めとする身近な大人達は呼び捨てで、くん付けなんて病院くらいでしか聞かなかったのだ。
翔くん、自分をそう呼ぶ声が不思議でならなかった。聞いたことのない、やわらかく優しい声。きっと絵に描いたら角のないきれいな真ん丸い形をしていて、転がるように空気を揺らしていく。そんな情景を思い起こさせる音が、大丈夫だよ、怖くないよと宥めるように、そろそろ起きてと甘えるように、自分を呼んでいる。
沈み込んでいた意識を、少しずつ水面へ向かって引き上げていく。発作は治まっていたものの、その代わりに熱が出てしまったらしい。頭は内側に重りを仕込んだようで、体にも力が入らない。ゆっくりと、大きな扉を押し開けるように瞼を開けば、枕元に誰かがちょこんと座っていた。


『しょうくん』

目を覚ました俺に気付いたらしく、その子は―――見知らぬ女の子は、もう一度嬉しそうに名前を呼んだ。
夏の夕暮れみたいな少し変わった色味の髪は肩の上で切り揃えられ、なだらかに小さな輪郭を覆っている。傾げられた首に合わせてさらりと流れたその奥には、陽だまりの色をした瞳と、はにかんだような微笑みが湛えられていて。体を包む浴衣は、その生地も帯も全部がその髪と揃えたように朱の色をしていた。


(帯だけじゃなくて、頭から足の先っぽまで金魚みたい)

熱でだるい体は声を出すことすら億劫で、ただ視線を送ることしか出来ない。
一方、金魚の君はその視線を受け止めてなお相変わらずふわふわと笑っていた。


(―――呼んであげたいのに、なあ。)

知らない、解らない筈なのに。何故だか俺は、その子の名前を呼んでやりたかった。
だって自分は気付いているのだ。この笑みは彼女の癖のようなもので、本当に嬉しい時、幸せな時の彼女はもっとずっと花が咲きこぼれるような笑顔を見せてくれる。震わない声帯の代わりに、布団の中からそっと手を伸ばす。正座する膝に乗せられた白い手のひらに届くまで


「……翔くん、」
「!」

夢をたゆたっていた意識が一気に現実へ引き戻される。もしかして、ずっと呼んでくれていたんだろうか。あんなに頑なだった態度が嘘のように申し訳なさそうに、ともすれば泣きそうにすら聞こえるドア越しのくぐもった声。フラッシュバックするように瞼の裏を横切っていく夢の少女が、春歌に重なっていく。

「…なあ、春歌。やっぱり俺、お前の顔が見たいよ」

本当は、彼女の意を汲んで退散しようかと思った。諦めきれない気持ちはあるけれど、平時は自分の意思を強く押し通すことのしない春歌がここまで頑ななのは自分を思ってのことなのだ。現在は全快したとはいえ、在学中に目の前で発作を起こしたことは何度もあった。それが今なお、春歌の心に陰を落としているんだろう。
また何かあったら、またそれで長く傍を離れなければならなくなったら。お互いがいなければ生きていけないとでも言うような、依存じみた執着がある訳じゃない。だからと言って、離れることが許容出来る筈もなかった。

「……翔くん、マスクはされていますか?」
「おう」
「帰ったら、」
「うがい手洗い、消毒だってするし加湿器だってつける。」
「………」

ガチャリと、いつもよりずっと重い音を立ててゆっくりと開けられる、天岩戸と化していた隣部屋のドア。焦がれていた彼女が、その奥に佇んでいた。

「……はるか」

途端、張り詰めていた空気が緩んでいく。そうして嬉しそうに、花が咲きこぼれるように笑う彼女の陽だまり色に映り込む自分は本当にだらしない、ゆるみきった顔をしていた。
―――だって、会いたくて堪らなかった。さわりたくて、焦がれていたのだ。
捕まえるように俺は、自分の手のひらをドアノブを握る白い指先に重ねていった。




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