「あの、春歌さん?」

何度か扉を叩いたが反応はなく、五度目に春歌ぁと泣きそうな声を上げると彼女は扉越しに、「何度言っても駄目です!絶対に出ません!」とぴしゃり言い放った。
いわゆるインフルエンザ。流行性なんたらかんたら。
早めに予防接種を受け常に医者がするような高機能マスクをし、なんたらスチーマーとかいう高価な加湿器を買いそろえ、うがい手洗いを毎日していた春歌でもかかるのだから、まったくやっかいな風邪だった。
足元もおぼつかない春歌に付き添って病院にいこうとすると「インフルエンザかもしれませんから近寄らないでください」と言われ、診断結果は案の定で、それからというもの一週間はとうに過ぎるというのにパートナーは直接顔を合わせてはくれない。携帯越しの彼女いわく、「熱が下がってから一週間は菌を撒き散らしてしまうので絶対に会いません」だ、そうだ。撒き散らすって表現はどうなのと頭を抱えたが、彼女の仕事は幸い、部屋から一歩も出ずに行うことができる代物だ。一人の部屋、一人でグランドピアノの重いふたを開け細い指で軽快に鍵盤を叩きながら、五線譜に書き込んでゆく。それをパソコンに落とし込みデータ化し、クライアントに送る。実際、彼女は仕事に穴をあけていないらしい、とはたまたま仕事がいっしょになった恩師からの又聞きにすぎない。
インフルエンザの菌でないからわからないが、というか当然、プロとしてインフルエンザにかかるわけはいかないが、それを一旦横において、やはり彼女に会いたい。一目顔を見るだけでいい。何しろその、医者がいう「一週間」は昨日で過ぎた。だからいいだろうと、ゆるむ頬を必死に引き締め隣部屋のチャイムを押したのに、冒頭のごとく、がっちりと拒否されてしまうなど。

(―――まあ、そうだよなあ)

首の下あたりをガシガシとかいて、ふうとドアの前で小さく溜息をはいた。
ある程度、予想はできていた。パートナーとしてこちらの身をひどく案じている彼女だから部屋へは上げてくれないだろうと。ただ、一目でいい、直接顔を見せてくれるかもしれないという淡い可能性を押し込めることができるほど、翔は大人ではない。扉を隔てた向こう、彼女はだんまりを決め込んだようだ。翔は頭を扉にもたれかけて瞳を閉じた。そして今朝見た、懐かしい夢へと思いをはせることにした。



、五歳だった。ただ、記憶はひどく曖昧であることを断っておく。
金魚みたいにひらひら動く兵児帯がひょこひょこと揺れていた。神社の宵宮にいこうと近所の女の子に誘われ、薫と俺とその子の三人で出かけることになった。薫はしつこく俺のことを心配し、翔ちゃんが行くなら僕も行くからねといって首をようやく縦に振った。女の子の名前はもう忘れたが、結句自分は宵宮へいくことは叶わなかった。おきまりの、例の発作がその日も計ったように喉を揺らしたのは、しぶしぶ承諾してくれた母に紺の絣を着付けてもらっている最中だった。
祖母の家の縁側に面した六畳ばかりの畳部屋で体をくの字にして咳き込む息子の発作に、母は背中をやさしくなでながら薫には祖母を呼ぶよう指示を飛ばし冷静に対処した。袖口を薫にひっぱられた祖母はおっとりした声で、あらあらと呟き、反して押入れから布団を出し手早くひいた。着せかけられていた紺絣はひっぺがされ、かわりに祖母の家に行った際は寝巻き代わりに着せられていた白地に藍で蔦が染め抜かれた浴衣を着せられ、布団へ寝かされた。薫の姿が見えなかった。女の子と宵宮へ行ったのだろうと思う。いいなあ。それだけを思いながら、徐々に遠くなる意識と布団といっしょに被せられた眠気に全てをゆだねた。




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