張り詰めた糸のように凛とした、その背は常に前を見据え伸びていた。

彼らに比べれば、出来ることなど赤子のそれに等しい私の両の手。

どうか支えになれはしないかと、寄り添うことは出来ないかと、泣いた。



「…千鶴、」

春のやわらかい日差しと空気に溢れた縁側、腰掛けた彼が私の名を呼んだ。
共に暮らすようになってから変えた互いの呼び名は、今もまだほんの少しの気恥ずかしさを孕んで響く。
彼の唇からこぼれるたった三つの音が、あんまり温かくて、嬉しくて。たったそれだけでいつも、私の鼓動は速度を上げた。

「?どうした」
「………」
「千鶴?」
「…烝さんに名前を呼んでもらうの、好きなんです」

返した言葉に、不思議そうに丸められた紫苑がゆっくりと瞬きをする。
見る物を射抜くような鋭さばかりが際立っていた瞳は、今はすっかり穏やかになり、凪いだ色をたたえていた。

「…そうか」
「はい、そうです」

言ってにこりと微笑めば、ふいと視線が逸らされる。そうしてやわらかく、僅かに細められる眦。
共に過ごしていくうちに知った、彼の照れた時の癖だった。
ほこほこと湯気を立てるお茶を乗せたお盆を置き、そっと隣に腰掛ける。

「今日も良いお天気ですね」
「そうだな。もう少ししたら、裏山へ薬草を摘みに行こうと思っている」
「ご一緒します」

言葉を交わすだけで熱を発する感情が、満たされる想いがあるなど知らなかった。
触れた、触れられただけで溢れそうになる涙など、言葉など知らなかった。
彼と出会ったことで教えられたその一つひとつは、私のなかで掛け替えのないものとなって息をしている。

「いつも千鶴が共に来てくれて助かっている。やはり、俺の知識だけでは限界があるから」
「私こそ烝さんに教わっていることも沢山あるんですから、畏まらないで下さい」
「…そうだろうか」
「烝さんの煎じた薬は評判が良いんですよ?皆さんいつも笑顔でお礼を言って下さいますから」

本職ではないにしろ、かつては共に隊の医療を担った―――誰かを生かすことを、誰よりも願う者同士。
時代の名前も肩書も変わったその時、そういった仕事を選んだのは至極自然なことだった。

「…ありがとう」

ぽとりと、落とすような呟きの後に紫苑は雲の浮かぶ青空へと向けられる。それは、空よりもっと遥か遠い場所にあるどこかを見つめていた。
空の青と雲の白。時としてその対照は彼らの纏っていた色を、彼らを思い出させる。
―――敬うように、憧れるように、悔いるように揺れる色彩。
かける言葉を持ち合わせない自分を情けないと感じる一方で、その横顔すら好いてしまった私がいた。

「…君は俺が空を見ると、いつもそんな顔をしているな」
「え?」
「まるで親とはぐれてしまった子供のようだ」
「………」
「筆の先程の期待を滲ませた、大きな不安を抱えている」

武骨で、でもきれいな手のひらが頬に触れる。ただそれだけなのに、どうしてか無性に切なくなって。

「…君はおそらく勘違いをしている」
「…?」
「俺が…今の俺が一等大切に思い、守りたいと思うのは君だ」
「烝、さ」
「君と過ごす時間を、君の傍で生きる時間を何より尊いと感じる。愛しい、と思う」

ふわり、と。
やさしく、やわらかく彼が笑った。

「あの人達を忘れることはしたくないし、きっと出来ない」
「…私もです」
「だが君となら…千鶴となら、未来を夢見られる。この先もずっと傍で、生きていたいと思う」
「…っ…」
「君は、俺の未来そのものなんだ」

顔が熱くなるのがわかる。あっという間に私の頬は赤らんで、そうして堪えきれなかった涙が一つこぼれていった。

「っ千鶴?」

ああ、少し焦ったあなたの声が響く。だけど私は俯いてしまって、余計に心配をさせてしまう。
違うんです、これは悲しいんじゃなくて。嬉しくないんじゃなくて。
全部ぜんぶ、その反対なんです。

「大好き、です」

顔を上げ、撫でるように涙を拭う指先を感じながら、真っ直ぐと彼を見据える。
そうして小さく、でもはっきりと音にした言葉はちゃんと彼にも届いたようで。

「…俺は、君を愛している」

それが合図のように私は瞼を伏せて、互いの距離が緩やかに埋められていくのを待った。
重ねられた唇が、愛しい。抱き寄せる腕が、伝わる体温が、鼓膜を震わす息遣いが、愛しい。
くちづけに応えるように腕を回すと、体格の小さい私に合わせて丸められた背筋に触れた。
そうして喜びと切なさが同じ分だけ込み上げて、私の心を揺らしていく。
閉じた瞼からまた一筋、涙が落ちた。




丸めた背中の愛しさに




他の誰より真っ直ぐと伸びたあなたの後ろ姿に恋をしました。
でも今はその、穏やかに丸まっていく背を何より愛おしいと感じています。




20100324
企画『花霞』さまに提出致しました

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