雨が降る。
眩しいくらいの青を灰色に塗り替えた雲が、冷たい雫を降らせて行く。
あの蒼は、どこへ行ってしまったのだろう。灰色の空を見上げる度に思う。


北の乾燥したこの地にも、雨季というものは訪れる。太陽は時折顔を覗かせるけれど、青空は久しく見ていなかった。
今日もまた、泣き出しそうな灰色の空。湿った空気が、頬を撫でた。

「また夕方頃降り出すのかな…」

ぽつりと落とした独り言は、誰に届くでもなく消えて行く。
仕事へ向かう後ろ姿を見送って、家事を一通り終えて一息。この天気では洗濯物も思うようには干せなくて、出来ることが限られてしまう。
決して大きくはないこの家も、一人で過ごすには少し広い。こんな日は、尚更そう感じた。

「…そうだ、繕いものがあった筈」

よけてあった着物を手に取ると、ほつれた袖口が目に入る。ふわり広げたそれから、彼の香りがした。
今頃どんな仕事をしているんだろう、確か今日は早く帰るって朝言っていたな。
思考や行動の一つひとつに彼がいて、少しくすぐったい気分になった。
―――彼は自分の速度に追いつかない私を、時折立ち止まって待ってくれた。けれど、少し前を歩くことは変わりなかったのだ。
それが今は、同じ速さで歩いてくれる。手を取って、隣にいてくれる。
出会って、共に過ごして。確かに変わった繋がりに、心が満たされて行く。

「ここを、こうして…」

一針一針、真剣に縫う。私に対しては過保護なくらい気を遣ってくれるのに、彼は自分に関しては殊更無頓着だ。
この服だって、昨夜私が気付かなければ彼は自分から繕ってくれとは言わなかっただろう。

「……………」

一さんは、いつもそうだ。私が辛くないように、哀しくないように。そればかり考えて、私を守ってくれる。
彼が辛い時や悲しい時、私はそれを癒すことが出来ているのかな。それとも、あの人は私にそんな所見せてくれないんだろうか。
夫婦となって結構な時が経っている。なのに何だか悲しくなって来た。いつもはこんな不安なんて感じないのに、どうして。

「…あ、」

思考に歯止めをかけるように降り出した雨に、手を止める。確か彼は傘を持って行かなかった。
ほんの少しの寂しさと、この訳もなく込み上げる悲しさをなくしたくて。傘を手に、家を出た。



「…一さん!」
「…千鶴」

家を出てからしばらく歩き、葉の繁る樹の下で雨宿りする彼の姿を見つけた。ぱたぱたと駆けて隣に立つと、その髪からこぼれる雫が頬に落ちる。

「…すまない、急な雨で濡れてしまっている」
「大丈夫ですよ。手ぬぐいも持って来ました」

一度傘を畳んで、取り出した手ぬぐいでやわらかい髪をそっと拭く。あらかた終えた所で、乱れた前髪越しの空色と目が合った。

「そうか…」
「千鶴?」
「…最近、どうしてか不安だったんです。その理由が今、わかりました」
「何だ」

途端に真剣に、心配そうに私を見る瞳に、顔が綻ぶ。

「一さんの目は、すごく綺麗な空の色だから…」

まるでこの雨は、あなたの涙のように思えてしまった。曇った空を見ると、不安で仕方なかった。あなたの心に何か影が差しているんじゃないか、そう思えてしまった。
何のことはない、結局私の頭は一さんでいっぱいだったのだ。
そう告げると、その瞳は呆気に取られたように見開いて、すぐにやわらかく細められた。

「雨が、俺の涙か」
「私、真剣なんですよ?…一さんは、私に弱音を聞かせないじゃないじゃないですか」
「……それは、」
「それは?」

言いかけて、詰まる言葉の先を促す。いつも言葉に迷いのない一さんの珍しい姿に、私まで緊張した。

「………」
「………」
「…俺は、思ったことを言葉にするのがあまり得意ではない」
「はい」
「…しかし、弱音を吐きたい時も勿論ある。だから、」

そう言って、雨で冷えた指先が私の頬を撫でた。真っ直ぐな視線が、私を射抜く。

「こうして、お前に触れるんだ」

彼の額が、こつんと私の額に合わさる。雫に濡れた髪と、温もりが肌に伝わって。

「俺は、お前に触れているだけで安らぐし、癒されている」

もし雨が俺の涙ならば、そこに差される傘はお前に他ならない。
至近距離で、彼が微笑む。軽く掠めるように触れた唇から灯された熱が、顔中に広がっていった。きっと今、私の顔は真っ赤に違いない。
恥ずかしくて瞼を閉じると、ゆっくりと体が離れていく気配がした。

「…千鶴、空を見てみろ」
「あ…!!」

穏やかに微笑む彼の指先をたどると、雲の切れ間に青空と見事な虹が輝いていた。

「綺麗…」
「ああ、綺麗だ」

太陽に白く照らされた青空と、それよりももっと澄んだ蒼に、私は微笑んだ。







20090618

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