縁遠いと思っていたもの。
許されはしないと感じていたもの。
それは確かにこの手の中に存在しているのに、俺は慣れぬその温かさを持て余す。
少しでも力を込めれば簡単に瓦解してしまいそうにやわく脆い、故に愛おしいその感情。
それは誰もが持って生まれたものなのだと、あいつは笑う。
だが俺の中で眠っていたそれを花開かせたのは、間違いなくあいつの存在だ。
出会ったことで芽を出し、重ねる時間の中で育まれていった。共に在ったからこそ、この幸いは咲くことが叶ったのだ。



「…千鶴…」
「はじめ、さん?」

褥の中、とろけた顔がこちらを向く。月色はこれ以上ない程にやわらかく、瞼が今にも閉じようとするのを必死に堪えていることが見て取れた。
何度触れ、抱こうと飽くことがない。それどころか、日増しに愛しさは募るばかりだ。指先で頬をなぜると、猫のようにすり寄ってくる様にまた心臓は穏やかに跳ねる。

「どうしました…?」

幼い容貌とは裏腹に聡い一面を持つ千鶴は、些細な空気の変化にもすぐに気付く。上体を起こした俺を追うように、千鶴もまた緩慢な動きで身を起こしこちらへ向き直った。
共に暮らすようになってから伸ばされた髪は今は下ろされ、平時とは違った印象を与える。明かりを消し、月の光りだけが光源となる室内で浮かび上がるのは、誰より愛しく思う女の姿。ひやりとした風が、肌を撫でた。

「…時折、夢ではないかと思うことがある」
「夢、ですか」
「ここでの暮らしは…お前と過ごす時は、あまりに甘く柔らかい」

ただ前だけを、信ずるものだけを映していられたあの頃に未練が無いと言えば嘘になる。だがしかし、今この時を失い難く尊いものだと感じているのも紛れもない事実で。

「…慣れていないのだ、こんな思いは」

かつての己をこの世へ繋ぎ止めていたのは、間違いなくあの場所だ。だが時が移ろい、世が形を変えていく中でこの手で掴み離さぬことを誓った存在が出来た。
それは、途方もない幸せだった。

「…朝、目が覚めると腕の中にお前がいる。共に目覚め、食事を摂り…その一つ一つが当たり前になっていく。何よりも幸福であると、思う」
「…はい」
「お前の名を呼べること、お前に触れられること。些細な事柄すら、俺を満たされた気持ちにさせる」

名を呼べば笑い、この手で触れれば応えてくれる。
愛しい者の傍らに在ることが、こんなにも幸いであると、

「―――――」
「一さん、」
「…すまない」

涙が、溢れた。
生きる理由を、生き抜く信念を。死に場所を失ってしまったと感じていたのだ。この選択に後悔はない。だが、一方で永遠に捨て去ったものも確かに存在するのだ。
だが、それでも俺は、

「お前が愛おしい。…誰よりも、何よりも」
「…はい」

堰を切ったように流れ落ちていく涙は、いつか千鶴が流したのを同じく透明で温かい。それを他人事のように、ぼんやりと感じていた。
そっと、白い手が伸ばされる。

「私の手は小さくて、非力で…一さんの目には頼りなく見えるかもしれません。でも、私は受け止めたいんです」
「………千鶴、」
「私を選んでくれたあなたを。私を選んだことであなたが失ってしまったものを、全て」

やわらかく、深く抱きしめる腕は白く細いのにこんなにも強い。支えてやらねば立ち続けることすら危ういだろうと思っていた雛鳥は今、こんなにもしなやかで。

「私にとって、あなたと共に生きる時間こそが全てなんです。春には桜を見て、夏は川に行って…こうして秋は、長い夜を寄り添って過ごして…」
「………ああ、」
「一緒に見たいものが、沢山あるんです。高い高い空に連なる魚のような雲、日に日に色濃くなっていく山の木々。聞きたいものも、食べたいものも、沢山沢山あるんです」

小さな願いを口にする様はまるで、願い望むことを躊躇う俺を許すようだと思えた。
そっと、深く息を吸い込む。肺に染み込む甘い香りに、また少し涙が込み上げた。

「…きっと、」
「はい?」
「…きっと、お前が隣にいるからこそ、俺の世界は美しくあるんだろう」

手のひらで、頬をとらえて。真っ直ぐに見た月色はただ、ただ美しく。衝動のままに、唇を重ねた。

「…は、」
「…愛している、誰よりも」

空気を震わせるのは、微かに響く鈴虫の音と。それから艶めく、吐息だけだった。








20100912

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