あなたが、
あなたが、
あなたが、

幸せでありますように。

一つ覚えのように繰り返し繰り返し願っては、夢を見る。
誰よりもあなたが、誰でもないあなたが幸せでありますように。



雨が地面を叩く。雷が、空気を震わせ空を裂く。
冷やされた風は肌寒いくらいで、寄せた肌に不快感はない。

「…また、雷」

引き寄せ抱きしめる腕の中でぼんやりと、呟いた。
彼は時々こうして思い出したように私を甘やかす。子供のように抱きしめて、やさしく唇を降らせるのだ。
私はただそれを享受して、猫のようにすり寄る。ほんの少しの虚しさと、寂しさを押し込めて。何にも気付かないふりをして。

「…千鶴、」

確かめるように呼ばれる名前が、触れる指先が好きだ。愛おしくてまた、泣きたくなる。
盛りを過ぎた夏の風が漆黒の髪を揺らした。

「はい、歳三さん」

眩しさに目がくらむ、凶暴なまでの鮮やかな日々の中にぽつりと落ちてきたようなひととき。それは何よりも尊くて、温かくてかなしい時間。
きっと、気付いてはいないんだろうけれど。こうしている時の彼の瞳は私を見ていない。私を通り過ぎた先、決して戻れはしない時間を夢見ている。

「私はいます…ずっと、ずっとあなたの傍に」

解っていたのに。
どうしたって、私だけではその空虚を埋めることは出来ない。幸せには、出来ない。
それでも願うのだ、共にいること。私を壊れもののように抱きしめるこの腕の持ち主が、誰よりも幸せであることを。
いつからだったんだろう、この人の幸せがそのまま自分の幸せだと考えるようになったのは。
彼が笑えば私もわらう。
彼が喜べば、私も喜ぶ。
彼が嬉しいなら、泣くなら、怒るなら。
それは依存とも執着ともほんの少しだけ違う、温かい、でもいびつな感情。
風が止んだ。雨はまだ止まず、地面を濡らし続ける。雷は尚も、空を走る。湿った空気がじんわりと部屋を浸食して、畳の匂いが一層強くなった。

「この夏が終わっても…どれだけ季節が巡っても、ずっと、」

言葉の先は唇にさらわれて、音になることなく飲み込まれていく。温度を分け合うように重なって、繋がって。

「…お前は、」
「…?」
「夏は、好きか?」
「…はい、とても」

暑さにうだって、打ち水に乗じて皆で水浴びをした日。花火大会があるからと、銚子を片手に屋根によじ登った日。そうして、揃って怒られた日。
皆みんな、覚えてる。私の中ですらこんなにも鮮やかに、あの日々はひかっているのだから。

「本当に、楽しかったですから」

あの喧噪はもう無い。二度と、還って来ることもない。
どうか、本当に魂がこの季節の間だけこちらへ帰って来るのなら、この人の傍にいて下さい。一日で、一晩で良い。そうしてこの人が笑ってくれるなら、私はそれで幸せなのだから。

「…なぁ、お前は今、幸せか?」

泣きそうな瞳で、何かを悔いるような表情で、聞かないで。
あなたが、あなたが、あなたが。他の誰でもないあなたが幸せなら、それで。私は満たされるんです、しあわせなんです。

「あなたの幸せが、私の幸せです」
「俺は…っ」

腕に込められた力が、強くなって。触れた手のひらが熱い、そう感じた次の瞬間には押し倒されていた。視界に移るのは稲光に照らされた紫苑、漆黒、それから天井。なのに聞こえるのは止まない雨の音で、ここがどこであるかを見失って。

「俺は、お前とそうありたいんだよ…」
「歳三、さん?」
「お前の、じゃねぇんだよ…俺は、お前と、」

視界がぶれる。滲んで、頬が濡れる。私は今、泣いてるの?そして、ぽたり。温かい雨が、私の肌を伝う。
泣いてるの?あなたも。

「ごめんなさい…」

真正面から受け止めるこの人の涙があんまり綺麗なものだから、あんまり苦しいものだから、私はどうしたら良いか解らずにまた涙を流す。

「馬鹿野郎…っ」

ねぇ、見失っていたのは私だったんでしょうか。見誤っていたのは、ずっと、ずっと。
向かい合う温もりを通り越した先に、失った時を夢見ていたのは私だったんでしょうか。
だって、願うのは怖かったんです。自分の幸せを望むなんて、そんな、こと。
長い、長い夢からやっと目が覚めたようなそんな心地。暑くて仕方ない。じんわりと汗が滲んで、でもさわりたくて。

「一人でも生きていける…生きては、いけるんだよ…」
「…はい」
「でもな、俺はお前と共にありたい。お前と生きて、」

しあわせに、

音にするのは躊躇われたその言葉を、唇が紡ぐ。
強く、強く抱きしめられた。感じるのは体温と、彼の匂いと、呼吸と、鼓動と。私を閉じ込めるこの人が紛れもなく生きている、その証。
悲しくはないのに私はどうしようもなく泣けてしまって、その肩に縋りついて子供のようにわんわんと泣いた。
好きです、好きです。誰よりもあなたが。
幸せに、なりたいです。誰でもない、あなたと。

「…千鶴、」

確かめるように呼ばれる名前が、触れる指先が好きだ。
今ならそこに込められた想いを、素直に受け取ることが出来る。甘えて、身を任せることが出来る。
思い切り泣いた体は汗をかいて、髪も着物も肌に張り付いていた。泣き過ぎて少し痛む頭を上げると、穏やかな微笑みが迎えてくれる。

「俺と生きろ。誰よりも俺の近くで、ずっと」
「…はい、」

雨は止んで、風もない。雷はとうに、通り過ぎていた。








20100820

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