尊いもの、失いがたいもの。
ありったけをこの手から腕から背からこぼし落とし、切り捨て逃げたあらゆるもの達。
そうして消えることのない傷や血のついた、薄汚れた心に残るもの達。
そのひどく冷えた、寒い場所に火を点すようにやわらかく在る唯一。
いつ消えるともしれない、よわかった―――弱いと思い込んでいたやさしさが、今も変わらず隣にいる。
その事実に時折、泣き出したくなる俺がいた。




「…寒くねぇのか」
「もう慣れましたから」

にこ、と音が聞こえそうなくらい明るく笑う顔につい手が伸びる。
やっぱり頬は冷たくて、鼻の頭は少し赤くなってる癖にこいつはころころ笑って。触れた指先に一瞬見開かれた真ん丸の月色が、やわらかくとろけていく。

「…やっぱ冷えてんじゃねぇか」

珍しく、自分の肌より遥かに熱を持つ俺の手のひらに擦り寄る様に十かそこらのガキみてぇに心臓が跳ねた。
年々「女」の顔になっていく癖に、時折こうやって幼く甘えて来るのは卑怯だと思う。誰かの面倒を見て来た過去がしみついてんのか、俺は甘えられるととことん弱い。
今まで相手をして来たのはこいつとは真反対と言って差し支えない女達。間に見えない線を引き、馴れ合わず寄り掛からずが常だった。

「…千鶴」
「はい、何でしょう」

依存している部分も少なからずあるだろう、それが全てだとは思わないが。
愛しいと感じるときに終わりがない。
俺の一挙手一投足、言動そのひとつひとつを拾い上げる千鶴の隣に居続けたいと、想っていた。

「歳三さん?」

その声が、瞳が冬を溶かしていく。
凍てつく風も、白く染まる息もかじかむ心も、とろとろ形を変えていく。
頬が染まる、涙ぐむ理由が急速に変わっていくのだ。
幼く無垢な存在が、おそろしいと感じたことも眩しく見えたこともあった筈なのに。
頬と同じに冷えた指先を、引いた。

「!どうしました…?」
「…さみぃ」
「へ」
「寒いんだよ、」

腕の中閉じ込めた身体は冷えているのに、抱きしめた瞬間から胸の内には温度が生まれていく。

「………」
「さみぃ…」

自分より遥かに小さな肩に顔を埋めて、さっきのこいつみたいに頬を擦り寄せる。
愛しい、愛しい、愛しい。呼吸するように想いは生まれ、溢れていく。
やわらかな肌、立ち上るにおい、小さな指先。その一つひとつに宿る温度に甘え、沈むように溺れたいとすら感じていた。

「…千鶴、」
「うあ、」

息を吹き込むように囁くと、力が抜け心地よい重みが腕にかかる。
そのままゆっくりと、冷えた畳に寝転んだ。

「ん、」

肘をつき見下ろした月色には、ねだるような顔でこいつを見つめる俺がいる。
頭の、思考の芯がゆらゆらとぼやけ、やがて彼方へ霞んでいった。
そうして触れ、かさねた唇は恐ろしい程に甘い。足りない、たりない。まだ欲しいと、緩やかにしかし確実に千鶴の呼吸を奪った。

「…歳三さん?」

唇を離して、相対した瞳はとろけながらも真っ直ぐだ。白い手のひらが頬に触れ、ふわり。花開くように浮かぶ微笑みに、燻る熱が煽られる。

「まだ、寒いですか」
「……ああ、寒くて寒くて仕方ねぇ」

愛しいと、欲しいと思う心が尽きることはない。足りない、まだ全くもって足りていない。きっと満たされることなどありはしないのだ。
もっと中まで暴いて奥まで触れて、そうしてやっと安心出来る。

「ならあげます、全部」
「千鶴…」
「私の全部で、歳三さんをあっためてあげます」

確かに知った、かつてはあった温かさを失い軋む心はそうしてやっと、息をすることが出来る。
触れる度に気付く。まだ自分の傍らには、温かさを持つひとがいることを。

「千鶴、」
「はい」
「好きだ」
「…知ってます、私もそうですから」

そして愛する度に知る。
冬はこんなにも、あたたかいことを。








20100519

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