熱帯夜、いつも決まって見る夢がある。それは森であり空であり家であり、場所は選ばない癖にいつだって結末は同じ。
私は一人立ち尽くして、隣にいた筈のあのひとを探す。

最初は辺りを見回して、でも居ないことに不安になって走り出して。
名前を呼べば彼は必ず私の声に気付いてくれる。それを知っている筈なのに夢の中の私はいつも、声を出さないままあのひとを探していた。
駆けずり回って泣きそうになって、ようやく見つけた彼はいつも悔いるような瞳で私を見ていて。
今度こそ名前を呼ぼう、そう思った瞬間に気付く。私は声が出ないのだ。だからあのひとを、歳三さんを呼べなかった。
瞳はこちらを向いている、でも視線は私を通り過ぎて遥か遠くを見つめていた。
そうしていつか彼は瞼を閉じて、後ろを向いて―――

「千鶴!」
「…は、っ」
「しっかりしろ。俺を見ろ」

見慣れた天井と、彼。
水の底から急速に引っ張り上げられたような感覚が身体を襲う。呼吸が追いつかない。肌が、頭の芯が熱い。
涙がぼろぼろ流れ落ちていくのを、他人事のように感じていた。
力の入らなかった指先がかたかたと震えて、やっとのことで歳三さんの腕を掴む。

「…としぞ、さ、」
「ここに居る」

ああ、またやってしまった。
この季節が来てからというもの、どうにも夢見が悪い。
涙と汗でぐちゃぐちゃになった顔を武骨な指先が宥めるように撫でて、尚更私は泣いてしまう。
身体を起こされて、あやすように抱きしめる肌の感触に縋り付いた。
張り付く髪をどかすように梳き、触れる手が酷く優しい。戸惑いも落胆も一切感じさせないそれに、私はようやく安堵する。

「…大丈夫か、」
「、はい」

涙を乱暴に拭って返事をすると、仕方ないなと呆れたように笑う気配。
夫婦となった今の方が余程、このひとが大人で私が子供だという差が浮き彫りになっている気がした。
私が立っているのは彼の隣なんだろうか。それとも今もまだ後ろで、置いて行かれないよう裾を握っているんだろうか。
そんな物思いは全て、優しく乱暴な唇がさらってしまう。

「…落ち着いたみたいだな」

手ぬぐいを濡らして来てやると立ち上がった着流し姿の背中を見送る。
こうして気まぐれに訪れる熱帯夜に体はついていかないようで、べたべたして気持ち悪かった。深呼吸のような、ため息をひとつ。

「…ばかみたい」

自分を気遣って出て行った背中の主が帰って来ないのではないかと、もう不安になっていた。
静寂を食い散らかすように空気を震わせる蝉の声に、ますますそれは煽られていく。
こわい、さびしい。ひとりはいや。
自覚したが最後、せり上がる感情は喉を詰まらせ、涙を溢れさせる。
止まれ、止まれ、止まれ。せめて歳三さんが戻って来る前に止めなければ、また心配させてしまう。

「…っ…、はぁ、っう」

蝉の声は嫌い。
狂おしい程だれかを求めて鳴く声が、夢の中の自分に重なる。あの時出せない声はきっと、こんな風に泣きそうなんだろう。
だって日常が幸せである程、失った時のことを考えて恐ろしくなる。最初から終わりが、別れが見えている始まりだから、こんなに好きになったんだろうか?
違う、筈なのに。

「千鶴」
「…ありがとうございます」

差し出された手ぬぐいで、身体を拭いていく。見守るような視線が少しだけくすぐったかった。
このひとを支えたい、その思いが始まりだった。それなのに支えられているのは私の方で、でも歳三さんは穏やかに笑う。

「俺の嫁さんは甘えんのが下手くそだな」
「え、」
「…お前は知らねぇんだよ」

お前が笑う度、俺がどれだけ満たされているか。
腕の中でお前が眠る度、俺がどんなに幸せな気持ちか。

「お前は、何も知らねぇ」

俺の為に流されるその涙が、どんなに愛しいか。

「この先もずっと俺だけを見て、俺の為だけに泣け」

一つ、ひとつ。落とされるように紡がれる言葉が静かに染みていく。
横暴ともとれる、でもこの上なくこのひとらしい不器用な睦言。
乱暴で構わなかった。曖昧な約束で十分だった。このままずっと、捕われていたいのだから。

「…すきです、」
「ああ」
「誰よりも、何よりも。ずっとずっとあなたが好きなんです」
「俺もだ」

恐る恐る伸ばした指先が、届くその前に捕まえられて。そうしてまた、二人夜に沈んでいく。

「お前が俺を必要とするなら…お前が俺を求めるなら、それで良い」

これ以上何も、互い以外に何も考えられなくなれば良い。
肌に張り付く着物、汗を含んだ髪。たった七日間の命を謳歌する蝉の声。
およそ取り巻く全てから取り残された、置き去りにされたようなそんな場所に行けたら良い。
ただ今だけを、今の互いだけを見つめていられるような場所。

「…他がいらないんじゃねぇ。ただ、お前が居ればそれで良い」

蝉の鳴声が重なり、合わさり。それは豪雨のように降り注ぐ。
ああ、このまま夏に溺れ、執着に似た愛情で窒息してしまえたら。








20100421

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