何度繰り返しても、未だ慣れない感覚がある。
靴底に反発する固く無機質なコンクリート、手のひらに収まる遠くの他者と繋がる機械の電子音、本当の暗闇を知らない街中に溢れた人工の明かり。
全てが馴染んで来たものとは程遠く、いつも言葉にしがたい違和感を感じていた。
平成の世に生を受け四半世紀と少しの時間を過ごしたというのに―――未だ経験や記憶の根幹は、あの頃で。
土の地面を見ると安堵した。広い空に、幾度となく郷愁に似た感情を抱いた。
どうしたって消し去れない、過去と呼ばれるべき時間は俺の中で今も確かに息をしている。

「一さん、ごめんなさい!遅くなりました…」
「問題ない。…今来た所だ」
「耳が赤くなっちゃってるじゃないですか…手も、冷えてます」

白く染まった息を切らせて、千鶴が俺の元へ駆けて来る。
自分こそ耳や指先に鼻まで赤くなっているというのに、繰り返すのは謝罪と俺の心配ばかり。
取り巻く環境や纏うものが変わっても、彼女は変わらず穏やかに強く、やわらかい優しさを持っていた。
繋いだ手の小ささも変わってはいないから、余計に愛しく思えて。

「?どうかしましたか?」
「…いや、何でもない。行こう」

隣を歩き出した千鶴の視点は、かつてのそれより少しだけ高い。
ヒールの分だけ背伸びした月色が、少し照れくさそうに細められた。
いつの間にか慣れてしまったこの縮んだ身長差のように、彼女を通せばやがて馴染んでいくんだろうか。目まぐるしく行き交う情報にも、鮮やか過ぎる町並みにも。
―――そうしていつか、互いの存在すら『懐かしい』ものに変わってしまったら?
そもそもの出会いが閉鎖された特殊な環境だったのだ。自由に生きられる今、この先も千鶴は俺の傍にいたいと思ってくれるのか。
今更手放すことなんて、出来もしないのに。

「駅前も賑やかになって来ましたね」
「………」
「どこに行ってもイルミネーションで照らされて、色が溢れていて」
「…そうだな」

誰よりも好きで、大切に思う笑顔なのに。嬉しい筈なのに、どうしようもない寂しさを感じてしまう。
笑っていて欲しいのに、笑わせてやりたいのに。

「一さん、私…未だに何を、と笑われるかもしれませんが、あの頃が忘れられないんです」
「…?」
「…明かりがないと、自分の指先さえ見えないような夜が好きでした」

伸びた髪も薄く施された化粧も、千鶴をあの頃と違う表情に映す。
それなのに今の横顔は、確かに重なって見えた。

「火に当たっても凍えてしまうくらい寒くて、でも…そんな冬が、好きでした」
「…そうか」
「きっと、一さんと一緒だったからですね」
「…!」
「『今』の冬はまだ、私には少しだけ眩しいです。でも、これからも一さんと過ごしていけたら…きっと好きになっていくと思うんです」

言って千鶴は、恥ずかしそうに俯いて俺の腕に抱き着いて来る。
黒髪の隙間から覗く頬や耳は、先程までとは違う理由で赤く染まっていた。

「…千鶴は、これからの冬も俺と共に過ごしてくれるか」
「?」
「ずっと、この先も」
「…冬だけじゃないです。春も夏も秋も、ずっとずっと一緒にいたいです」

ゆっくりと顔を上げ、しなやかな意志を秘めた瞳で俺を射抜く。
ああ、俺は何て幼い憂いを抱いていたのだろう。
一瞬一瞬、また新たに千鶴を知っていくその度に恋していると言うのに、懐古の対象になるなど。

「…一さんは…?」
「そうだな…千鶴、」
「はい?…あ…!!」

はらり、降って来たそれに立ち止まった千鶴の視線が空へと向く。つられて見上げた先に、やさしく舞う白。

「雪…」
「…『最初に落ちて来る一粒』、か」
「一さん…」
「…俺はこの先のお前を、誰よりもお前の近くで見ていたい。変わりゆくものも、変わらないものも、全て」

空いていた左手で、コートのポケットを探る。冷え切っていた筈の指先が、それに触れた瞬間熱を持ったような気がした。

「千鶴…俺と、結婚して欲しい」
「…!!」

これからお前と共に過ごす時間の中で、全てが懐かしいものへと変わって行くのだろう。灰色の地面も、狭く切り取られた空も、きっと。
過ぎていく季節達を、色褪せるのではなく息づき受け継がれていくものとして、記憶に、心に収めていこう。

「…返事を、聞かせてくれるか」
「私も…っ、一さんの近くで、一さんを見ていたいです…っ」

震える手のひらに、約束をしまい込んだ箱を手渡した。
ぼろぼろと涙をこぼす千鶴の頬を拭ってやりながら、そっと肩を抱き寄せる。
落ち着いたら暖かい場所へ行こう。明かりに満たされた部屋で交わす『これから』を想像し、胸の奥が甘く疼くのを感じていた。








20100305

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