帰りたい、還りたい、かえりたい。
それしか知らない子供のように、祈るように言葉を落とす。

確かに幸せだった筈のあの頃へ。
君の隣にいるのが当然だった頃へ。
僕らがまだひとつのなかにいた頃へ。

帰りたい、還りたい、かえりたい。


思えば本当に寂しがりだったのは俺の方だったのかもしれない。
いつも俺を探すのは、呼ぶのは、触れるのは、千鶴の方だった。
寂しさを感じる隙間を端から千鶴が埋めてしまうから、気付かなかっただけで。
甘えたがりだななんて笑いながら撫でる心のどこかできっと、千鶴を探して泣かずに済んだことに、泣きそうなくらい安堵していた。
俺より高い体温も、どこか甘ったるい匂いも、同じくらい小さかった手のひらも全部、俺には必要だった。



視界を埋める薄紅色に声を上げ、降る花びらを受け止めてまた散らして。
まっしろな指を泥だらけにしながら草むらの花で不格好な冠を作って、嬉しそうに笑って。
日だまりがあんまり心地良いから、寄り添い合って眠って。
まるでそれ以外忘れてしまったように、繰り返し繰り返し流れる甘いあまい記憶。
微睡むように思い出しては、壊れたように両の眼ははらはらはらはら涙を流す。
別に悲しい訳でもないし、痛みも辛さも苦しさも全部俺には今更過ぎる。
何より今は傍に、他の誰でもない俺の隣に、千鶴はいるのに。

「千鶴、」
「………」

腕の中で身動ぎ一つせず静かに眠る妹の名を、ささやくように呼んだ。
だけど千鶴は目を覚まさない。穏やかな呼吸と鼓動だけが、鼓膜を震わせる。
さらり、頬にかかった黒髪をどかしてやると俺と同じ、でもどこか幼い顔が見えた。

「………、」

どうして俺はこんなにも、かえりたいと願っているんだろう。
お前だけ、お前さえ居ればそれで良いのに。満たされた筈なのに、まだ足りないんだ。

「帰りたい…還りたいよ、」

知っている。俺達がひとりだった頃など、一瞬たりとてないことを。
母の胎に存在したその時から、同じ場所にあるだけの別個のものだということを。
だから俺達はどんなに似通っていようと男と女として生まれて来られたのだと、ずっとずっと分かっていた。

「…かお、る」

例えばこの身体のどこか一部でも共有出来たら。
俺の心臓がお前へ、お前の心臓が俺へ血液を送り循環させることが出来たなら。そうすればこの焦躁を塗り潰して、切なさを溶かして消してしまえるだろうか。

「薫…?」

生温い風や空気や音は、ちっとも優しくなんかない。
しまい込んだ傷痕を撫でていく癖に、包んで忘れさせてはくれないのだ。
溢れる花も葉も果実も、全部どこか遠い別世界のもののよう。酷く甘い香りは、むかしばかりを思い出させる。

「千鶴、」

こんな曖昧な空気の中で確かだと感じられるのはお前の声と体温だけ。
強く強く、赤ん坊が母親に縋るみたいに千鶴を抱きしめた。これ以上力を込めたら壊れるんじゃないか、そう思うくらいに。
本当の意味で、互いがいなければ生きられない存在になれたら良いのに。
隔てる皮膚がもどかしくて、歯痒い。

「ないてるの…?」
「かえりたい…」
「…どこに?」
「知らない…解らない、そんなの」

ただお前から離れないで済む所なら、どこだって構わない。
独りは寂しい。独りは怖い。
弱い自分が情けなくて憎くて腹が立つ、だけど切り捨てるなんて出来なかった。

「…っ、」

千鶴の、その指先が俺の頬を撫でるから。噛み付くみたいに乱暴に唇を塞いだ。
月色は一瞬だけ驚きに見開かれて、それから穏やかに受け入れるようにゆるゆると閉じていく。指先に熱が、篭って。
深くふかく絡めて、繋いで。お前の肺から取り込んだ空気を食んで生きられたら、どんなにか幸せなんだろう。

「…っ、…」
「…かお、る、」

未だ涙は止まない。
馬鹿みたいな願いばかりを祈るように口にしては、こうしてただ押し寄せる寂しさに叫んで。

「もう離れないから…ずっと、一緒だから」
「…千鶴…っ」


一度砕かれ欠けた部分はもう、千鶴が戻っても元の形には戻れないのか。
考えてまた、涙が落ちた。








20100305

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