言葉など、貰っていただろうか。
子供の頃も今も、温かい声や視線を向けられた覚えが無かった。
朧げに霞む最古であり最初の記憶は、妹の、千鶴のわらう顔。
まだ意味を成す言葉など殆ど喋れなかった、ようやく二本の足で歩き始めた頃。よろよろと机につかまり歩き、二尺程の距離を進んではすぐに転ぶ。
そんな千鶴に腕を広げ手を差し伸べる両親を、まるで別世界のもののように見ていた。

『おにいちゃ、』

舌足らずに俺を呼ぶ、高いその声だけが温度を持っていたように思う。
曲がりなりにも鬼の大家の嫡子であったのだから、邪険にされてはいなかった筈なのだが。
それでも、千鶴に向けられた態度と俺に対するそれには確かに温度差があった。
―――以前、何かで聞いたことがある。親や身近に生きる者から言葉を掛けられない赤子は、皆やがて泣き止み空腹の訴えすら諦め弱って死んでいくのだと。海の向こうの人間は、そんな試みを実行したそうだ。

「…じゃあ俺は、何で生きているんだろう」

縋るべき存在から与えてもらった物など最低限だった俺が、慈しむ言葉の一つも記憶にない俺が、何で。
そこで閉じていた瞼をゆっくりと開いた。上げた視線の先に緋や橙の雨が降る。地面に座り込み投げ出していた膝の上にも、紅葉が降り注いでいた。
背を幹に預け何を見るでも聞くでもなく、ただ無為に過ごしどれくらいの時間が過ぎたのか。立ち上がるのが億劫で、また瞼を閉じようとしたその時。
さくさくと乾いた葉を踏みしめる、こちらへ近付く音がした。

「薫」

いつからか千鶴は、俺を名前で呼ぶようになった。お兄ちゃん、兄様。そうしてある日、名前で呼んだ。
今にして思えばそれは、両親が口にしない分を埋める為の変化のようで。現に千鶴は用が無くとも俺を呼んだし、俺はそれにささやかな喜びを見出だしていた。

「薫…っ!どこ…?」

雪村の家での記憶は、南雲で過ごしたそれより冷たくは、寒くはなかった。けれど決して、暖かかった訳でもなくて。
千鶴の周りは春だった。蕾が綻び咲き誇る、命が花開く目眩い季節。
けれど俺の周りはどこか冷えて、いつもどうしてか寂しくて。何かに取り残されたような、誰かに会いたくなるような、切なさばかりが募る秋だった。
纏わり付くような熱も凍てつく寒さもない代わりに、包み込む暖かさもない秋だった。

「かおる…」

俺を探す千鶴の声と乾いた足音と、葉が落ち舞う僅かな音だけがこの場所に、鼓膜に、響く。
暖かくもなく寒くもない、懐かしい感覚に全てを任せてしまいたくなる。
風が、涼しさと共に微かに甘い香りを運んで頬を撫でた。

「…見つけた…」

閉じかけた瞼を押し上げた向こう側、泣き出しそうな千鶴。
生き別れて探し出して、もう一度見失って。そうしてやっと取り戻した、俺だけの。
身を寄せ信頼をおいていた浅葱羽織のあいつらを失ってからというもの、千鶴は置いて行かれることにやたらと過敏になった。
平時は変わらず明朗で、穏やかに笑う。だがふとした瞬間に襲う喪失感に怯え、孤独に泣き幼い頃のように俺に向かって手を伸ばす。

「部屋にいないし、呼んでも返事がないから…」
「ごめん、考え事してたんだ」

それを十二分に理解した上でこうして抜け出す俺もまた、どこか壊れて変わってしまったんだろう。
へなへなと俺の着物を握り締めて座り込む千鶴の頬に手のひらを滑らせる。真っ白で真っ青で、冷えていた。指先は震え、華奢な肩は揺れて。

「千鶴、」
「…行かないで」
「何?」
「置いてかないで…」

まるで冬だ。
やわらかく咲いていく春を纏っていた筈の千鶴は今、枯れ果てた冬の真ん中に独りぼっち。
見据えたまま、乾いた唇に自分のそれで触れた。掠めるような口づけに、千鶴はぱちりと瞬きで応える。

「大丈夫…離してなんか、やらない」

抱きしめた身体は、頬と同じ冷たくやわい感触だった。ああいつの間に、こんなにも。

「千鶴、千鶴」

あいしているよ。
お前が今より寒くない季節に生きられるよう、今度は決してこの手を離さないから。
春なんて暖かいところへは連れ出してやれないけど、秋ならきっと一緒に行けるだろう。
そうして、長いながい夜に感じる寂しさや切なさを互いに埋め補完して行けば良い。それは歪で不格好だけど、俺達には似合いの姿だ。








俺を生かしたその声で、ただ俺だけを求めるならば。未来永劫この腕の中に居ておくれ



20100222