屋敷に迎え入れて一月と少し、執務に追われた俺と、何かにつけぱたぱたと忙しなく走り回り働く千鶴。
少し痩せたな、そう感じた所で最近まともに顔を合わせていなかったことに気付く。

「千鶴、」

執務の合間に見かける度、必ずあいつは笑っていた。だから安心してしまったのだ、心身共に確かに負担があっただろうに。
運ばれて来た千鶴の顔色は、けして良いとは言えなかった。

「…っ、」
「起きたか」

ゆっくりと開いた瞼に微かに安堵して、状況が飲み込めていない千鶴の額を撫でた。

「私…何で寝てるんでしょう?」
「倒れたことを覚えてないのか」
「!!……すみません…」
「?何故謝る」
「だって、迷惑をかけてしまって…」

瞳にはみるみる涙が貯まっていく。顔を隠すように布団を持ち上げて、千鶴はそれきり黙ってしまう。

「…迷惑ではない」
「嘘です」
「何故、そう思う」
「千景さん、いつも忙しそうに仕事をしてるじゃないですか。私なんかに構ってる暇はないはずです」

ぐずぐずと涙声になりながらも、はっきりと反論して来るその様に苦笑いがこぼれる。
全く―――侮らないで欲しいものだ。俺は何の前触れもなく、千鶴の布団をはいだ。

「!?千景さん!?」
「愛しい奥方の顔が隠れてしまっていたからな。実力行使に出ただけだ」

覆いかぶさるように顔の横に手をついて、至近距離で囁くと途端に耳まで真っ赤になる。
それでも涙は引っ込まなかったようで、濡れた月色が俺を見上げていた。

「からかわないで下さい…っ」
「俺は至って真剣だ。…何故お前はそう、俺を頼ろうとしない?何故俺を拒む」
「拒んで、なんか」
「…心配くらいさせろ。俺はお前の夫なのだから。そしてそれは、迷惑でも何でもない」

倒れたと聞いた時、一瞬息が詰まった。何故その時隣にいてやれなかったのかと、自分を悔いた。
こんなにも。こんなにもこいつは、俺の中で大きな存在になっていた。
千鶴が目を見開いて、そしてゆっくりと手を伸ばす。頬を包む指先は、少し震えていて。

「…役に立ちたいんです。少しでも、負担を軽くしてあげたい」
「……………」
「千景さんだって私を頼らないじゃないですか」
「…それは」
「どうしたら、喜んでもらえますか?千景さんは何でも一人でしてしまうし出来てしまうから、私が出来ることが少ないです」

せめて邪魔にはなりたくなくて、無理を言って手伝わせてもらってたのに。
泣きそうな、けれど真っ直ぐな声と瞳が俺を射抜く。ああこの少女の、何と不器用なことか。
頬を包む千鶴の指先を取って、俺はゆっくりと言葉を紡いだ。

「…お前にして欲しい、お前にしか出来ないことは山のようにあるさ。だからそう、泣くな」
「だっ、て」
「そうだな、明日からは俺を手伝え。難しいことはない、書類に目を通すだけだ。それと、」
「?」
「俺が疲れたら膝を貸せ」

そこまで言って、その華奢な身体を抱きしめ首に顔を埋める。千鶴の香りが、肺を満たしていった。

「だから、お前も無理はするな。俺に甘えろ。寄り掛かれば良い」
「千景、さ」
「夫婦とはそういうものだ」
「…はい…」

千鶴の腕が背に回されたことに安堵して、涙する頭をゆったりと撫でる。
心から、愛おしいと感じる。己にとって、腕の中で泣く小さな弱いこの少女が、鬼であることより千鶴であることの方がずっと重要だった。

「細くなったな、これで食事は取っていたのか?」
「…一人で食べるご飯は美味しくないから好きじゃないんです」

不規則な俺の時間に付き合わせるのが躊躇われ、隣ではあるが別々の寝室。自然、運ばれる朝餉もそれぞれが独りで摂っていた。
妻だ夫だと口にはしても、現在の俺達にはその言葉を真実にする事実は何もなかった―――今は、まだ。

「ならば千鶴、今後は俺と寝起きを共にしたら良いだろう」
「?…はい、」
「お前は分かっているのか?…俺とお前の子を産むことはお前にしか出来んことだぞ」
「!!」

大きく揺れたその肩をがっしりととらえて顔を離すと、先程までとは別の意味で泣きそうな千鶴がそこにいた。

「あ、あの…」
「流石にその日倒れた妻を、などと無理強いはしないさ。ただ、」
「ただ…?」
「覚悟はしておけよ」








俺がどれだけお前に溺れているのか、
お前は知らない。




20090528