いっそ手を離してしまえたら、どんなに良かったのだろう。
隣にいること、傍にいたいと思うことそれら全ては過ぎた願いだと感じていた。分かっていてなお、その手を離せなかった。
共に在ろうとする程に、傷が深くなることを知りながら。一度触れた温度を忘れることも、なかったことにも出来なかったのだ。


始まりはそう、あの夜から。
ただ不運な奴だと、その程度の感情しか持っていなかった。新選組が守ると決めたから、その手を取った。
決して、俺自身が彼女を信じた訳じゃなかった。純然たる義務―――それが、俺と彼女の間に存在する『絶対』。
どこで見誤ったのか、どこから綻び始めていたのか。いつからか名も知らぬ感情が、体の奥で息をしていた。

「千鶴」

気付いてしまった。
その名を呼ぶ時、微かな熱を持つ心。
その姿を見つけ、僅かに逸る鼓動。
傍にいるだけで、自然と穏やかに流れていく時間。
そうして、いつからか。他の誰でもない俺の手で守ってやりたいと願い始めていた。

「…千鶴、」

他者を心に住まわせること、それが信じがたい幸福と不安をもたらす。
何度も傷付き、涙しながら俺を追う瞳を重荷と感じる日もあった。それでも、突き放しきれなくて。
それがただの我が儘だと分かっているから、彼女の為にはならないと知っているから尚更苦しい。
自分のことで精一杯だった、もうこれ以上信じた者を喪いたくなかった。
だから俺は、あんな言葉を吐いた。

「…もう良い。お前はもう、ここから解放されるべきだ」

新選組も会津も、この国の歩みから取り残されていくだろう。仮に生き残った所で、亡霊のような日々を過ごすだろうことは容易に想像出来る。
その前に、解放してやりたかった。死人のように生きる自分を見せたくなかった。
自分から離せないのなら、どうか彼女から振りほどいて欲しかった。

そう、本当は。
これ以上深い傷を負うことを恐れたのは、俺の方だったのに。


「……………」
「…千鶴、」

食いしばるように固く結ばれた唇も、正座した膝の上で握り締められた拳も、白い。
何度その名前を呼んでも返って来るのは沈黙だけ。
何を傷付くことがある。俺の思惑通り事が進むのならば、近いうちに千鶴とは言葉はおろか姿すら拝めなくなるというのに。

「………」
「………」
「…千鶴、」
「………い」

触れようと伸ばした指先が止まる。ゆっくりと、唇が動いた。

「近寄らないで下さい、ほっといて」

こぼれ落ちたのは明確な拒絶。温度を失くしたような言葉が、突き刺さる。
持て余した手を握って、詰まった息を逃がすように吐き出した。
これで良い。負の感情だけが巡るこの場所から、出してやれる。
傷付く資格などない。痛みを感じるなど、許されはしないのだ。遠ざけたのは他でもない俺なのだから。

「…すまない」

深く、深く。もう一度息を吐き出して、立ち上がり背を向ける。
瞬間、感じたのは温もり。

「!」
「…っあなたが…斎藤さんが私に言った言葉は、そう聞こえたんです!!」
「ちづ、る?」
「もう良い。…もう、これ以上は踏み込むなと。そう言ってました」

背に抱き着く身体も、回された白い腕もかたかたと震えていた。こんな思いを、させたい訳じゃなかったのに。

「今、私が願うのは…斎藤さんの傍にいることだけです。許しては、もらえませんか…?」

傷付くだけだ。生き残れるのか、いつまで永らえるのか分からない。
いつか俺は必ず、お前を泣かせてしまうのに。

「いつか喪う日が来ても。こうして触れた温度を、忘れる日が来ても。私は、あなたと共にいたい…」

祈るように紡がれる懇願に、くらくらと侵されていく。
愚か者だ。俺も、千鶴も。傷付きながらでしか寄り添い合えない感情を持て余して、泣いて。

「…間違いだったと、後悔する日が来るかもしれん」
「わかってます」
「しかし、悔やんだ所で俺はもう二度とお前を離してはやれない」
「…はい」
「それでも、構わないと言うのか」
「私は、離さないで欲しいんです…」

手を取り、正面から向かい合って。微かに滲む月色を見据えた。

「…ありがとう」

重ねた唇はただ優しく。抱きしめた身体はただひたすらに、温かかった。








20091024

指定:『近寄らないでください、ほっといて』