優しい人間ほど、その視界は広いのだと思う。手のひらに乗るものもその指が触れるものも、きっと他の奴らのそれよりずっとずっと多いのだろう。
―――そうして目や耳に入り触れる世界の中に、自分自身は居るのだろうか。
自分を後回しにして他人に心を砕き、手を差し伸べ、小さく深い傷を負っていく。千鶴は、そんな女だ。

「土方さん?」

黙り込んでしまった俺を覗き込んで、大きな瞳が瞬きをする。くいと裾を引くやわらかい手には傷の一つもなく、とても大人の女のそれとは思えなかった。
こいつが俺らヒトと少しばかり違う鬼であることは何とも思わない。だが、小さな傷ならばすぐに癒えてしまうという体質だけはいただけなかった。
千鶴は決して、自分自身の為には泣かない。いつだって自分じゃない他の誰かの為に泣き、傷付いていく。白い首筋に、何度刀を滑らせた?月色が揺れ、滲む様を何度見て来た?駆け引きこそ得手とすれど、気遣いなんてのは管轄外だ。今更『優しく』など、何をしてやれば良いのかわからなかった。

「どうかしましたか」
「…千鶴、」
「はい?」

またぱちりと瞬きを一つ。何でもねえよ、そう言ってくしゃりと頭を撫でてやれば途端に不満そうな色を映す瞳に苦笑いが込み上げた。
ほらまたお前はそうやって、俺の、他人の傷にばかり聡くなる。そうして自分が傷付いたみたいに、ひっそりと泣く。

「おら、日が沈んじまう前に帰るぞ」

声が上擦りそうになるのを咳払いでごまかして、家路を急いだ。



「…千鶴?」

ああ今日もまた、泣いているのか。
腕の中、千鶴は白い背中をさらけ出し眠っている。俯いて、手を握り小さく丸まったその姿は赤ん坊のようで。伏せられた瞼を縁取る睫毛の先は、涙の粒を纏い揺れていた。
丑三つ時、夜の真ん中。こうして目が覚めるのはいつもこいつが泣いている時だった。
腹に回していた腕を解いて、体を起こす。今は閉ざされた、決して美しいものばかりを見て来た訳ではないのに、澄んだ光を絶やさない瞳。起きる気配は、なかった。

「お前の…」

「お前の目に映る『今』は、どんな色をしてる…?」

その目に映る世界は、未だお前を傷付けるのか。穏やかな色に、変わってはいないのか。
馬鹿みたいに前ばかり見て来た俺のこの目に映る視界は、きっとお前とは違う。

「千鶴」

前しか見ていなかった。前しか、見えなかった。狭い視界に入らなかったもの、入れることを拒んだものは数え切れない程あった。
かつて俺の世界はあいつらを、近藤さんを中心に回りそこにはいつだってその姿があって。いつの間にか、そこに入り込んだのが千鶴だった。

『人の目って、一寸もないんですよ。そこに映る視界も、けして広いとは言えません』

唐突に思い出すのはいつか千鶴と交わした会話のかけら。何故その話になったのか思い出せない、それ程にささやかな日常。

『だから、私の目に、この視界に土方さんが映る…その事実が、私は幸せです』

そう言い笑うその影で、お前はこうして泣いている。優し過ぎるんだよ、昔も今も。もっと我が儘で良い―――もっと自分本位で、構わないんだお前は。
指先で、撫でるように触れる。空気に触れて冷えた涙の冷たさと、やけに熱いと感じた眦。

「……、…」

僅かに身動いだかと思うと、ふるりと震えた瞼が開いていく。月色が揺れるのは涙か、微睡みか。
ゆっくりと俺に焦点を合わせていく千鶴を、壊しそうなくらいの力で抱きしめた。

「…土方…さ…?」
「お前は…」
「…?」
「…お前は、俺だけ見てりゃ良いんだよ」

傷じゃなく、哀しみでもなく。俺を、俺だけを見ろ。他人に砕くくらいなら、その心の全てを俺に注げ。
強張った手を取って、やんわりと握ってやる。それがとても温かく、柔らかいから。まるで、子供のように綺麗だから。涙が、落ちた。







20091012

指定:『お前は俺だけ見てりゃいいんだよ』