贅沢な話だとは、思うのだけれど。
認めることに照れは生じるが、千鶴が俺に対して特別な感情を抱き始めたのはそう最近のことではないんだろう。総司や左之達からは鈍い鈍いと散々揶揄されたものだが、俺とて何も全く気付かなかった訳ではない。
ただ。真っ直ぐに向けられるその感情に、ひたむきな視線に戸惑っていた。当時の俺は何を差し置いても、それこそ己などとうに捨て置く程に、新選組を第一に考えていたのだから。
だから不思議でならなかった。何故、こんな視野の狭い俺に彼女が惹かれたのか。傍に居たいと、願ってくれたのか。その思いは今もなお、燻り続けていて。

『斎藤さん!』

快活な、街を歩く娘と何ら変わらぬ平凡な少女。そう、思っていた。
しかし千鶴は、軟禁に近い状態で屯所に閉じ込められていようと、常に己に出来ることを探し前を向いていて。その姿勢に少なからず驚いたのは、俺だけではなかった。
年齢や経験、生まれ育った環境。それだけでは片付けられない純粋さを、千鶴は持っていて。それ故に人一倍傷付き、涙しながら俺の傍らに居ようとしてくれる。

彼女を、愛しいと想う。傍に居たい。傍に居て欲しい。
けれど望めば望む程、いつか千鶴の方から離れてしまいそうな気がしていた。こんなにも心を注ぎ、傾け、預けたいと想える相手など今まで出会って来なかったから。



「…斎藤さん、考えごとですか?」
「!」

隣を歩いていた千鶴がひょこり、俺の顔を覗き込んで。ほんの少し心配そうに寄せられた眉間に、苦い笑いが込み上げる。
感情のままにくるくると変わる千鶴の表情は、正に彼女の心を映す鏡なんだろう。時にそれは鮮明過ぎて、俺には眩しく感じるのだけれど。

「…いや、些末なことだ」
「そうですか?…私じゃ頼りないとは思いますが、何か出来ることがあったら言って下さいね」

繋いだ手に、力が込められる。人込みを口実に結んだ手のひらは、俺が思うより遥かに小さく華奢だった。気付いたらするりと解けていそうで、少しこわい。
内に渦巻く不安を吐き出したら、俺は楽になるんだろうか。千鶴はそれを、受け止めてくれるんだろうか。

「…急ごう。もうじき日も暮れる」

衝動的に、わざと混雑の酷い通りに入った。僅かに、歩調を速めた。彼女がついて来られるか際どい人込みと速度。
俺はそっと、手のひらの力を緩めた。

「っ…、……。」

するり、いとも簡単に白い手は離れて行った。自分が招いた結果なのに、後ろを振り返ることが出来ない。足を止めることなど、以っての外で。
このまま千鶴が、自分の元を離れて行ったら。好機とばかりに、姿を消してしまったら。
俺らしくもない。女々しい、情けない感情ばかりが頭の中を支配していく。

「…斎藤さんっ!!」

後ろから思い切り裾を掴まれて、振り返れば涙を目にいっぱいためた千鶴がいた。走ったせいか頬は赤らんで、呼吸も荒く乱れている。

「一人で、行かれるから…っ」

離れたのはほんの数分、それでも酷く安堵したのか堪えていた涙が一筋、こぼれ落ちていく。
裾を握りしめた手はそのままに、もう片方の手で懸命に涙を拭うその姿に、愛しさが込み上げて。

「…千鶴」

俺は何と愚かなのだろう。
彼女の涙は見たくない、その笑顔を曇らせる存在は何を賭しても廃除してやりたい、そう考えていたのに。
不安に揺れた月色に、そこから頬を走る涙に酷く安心している俺がいる。何故ならそれは、千鶴が紛れも無く俺を必要としている証だから。

「…済まなかった」
「…っ…」
「考えごとを、していたんだ」
「…はい」
「俺はどうも、一つのことに集中すると、その…周りが、見えなくなる節がある」

まるで、好いた少女に悪戯を仕掛けた子供のようだ。繋いだ手を引いたら、千鶴は簡単に俺の腕に収まって。寄せられた信頼に、罪悪感と安堵を感じる。

「…もう、大丈夫です。今度は絶対、手を離しませんから」

赤らむ目尻に指先で触れれば、照れくさそうに千鶴が笑った。その温かさと、かけられた言葉の強さに見透かされているのでは、などと。

「…手遅れだ」

一種の賭けだった。俺が手を離したその時に、千鶴が追ってくれるのか。―――俺は、平静を保てるのか。
賭けるまでもない、試すまでもなかったのだ。例えこの先、千鶴が傷付き涙することになろうとも。触れてしまったこの心を、存在を。俺はもう、手放すことなど出来る筈もない。

「斎藤さん…?」

けして解けぬように繋ぎ、絡めた手を引いて。人の途切れた小路で呼吸を一つ。そのまま身体を傾けて、唇を重ねた。

「…!!」
「…済まない」
「あの、えっと」
「…人の行き交う往来で、突然したことは詫びる。だが、触れたこと自体を詫びるつもりはない」

反論を許さないとでも言うように、一気にまくし立てて視線を反らす。何のことはない、ただ純粋に触れたかった。実行に移すのに、大分勇気が必要だったが。

「…お詫びなんてしないで下さい」
「な」
「私も、その…触れて欲しかったんです。だから、謝らないで下さい」

―――ああ、敵わない。
手のひらに伝わる温もりが広がり、千鶴が俺の腕に抱き着いたのだと知る。願わくば、彼女以上に赤く染まっているだろう俺の頬に、千鶴が気付きませんように。








20090905

指定:『…手遅れだ』