さらさら、さらさら。かつて過ごした京とは全く違う、風を纏った夏が少しずつ近付いてくる。
穏やかに温度を上げていく、春の陽の当たる縁側。隣に腰掛けた愛しいひとの、黒髪が風に揺れていた。
烏の濡れ羽色、そう呼ぶに相応しい綺麗な髪。
「前髪が伸びて来たね。切ってあげようか」
鮮やかな色が溢れる庭を見つめていた月色が、ぱちり瞬いて僕を見上げる。
指先で、掬うみたいに触れた一房。それは僕の好きな横顔を、僕を見る真っ直ぐな瞳を、ほんの少しだけ覆い隠してしまう。
君のものなら何でも好きな方だと思うけど、僕から君を隠してしまうものはきらい。
だからそんな言葉が出たのは至極当然のことで。もう幾度となく繰り返したやりとりに、千鶴が笑う。
「今お願いして良いんですか?」
「だって目にかぶっちゃってるじゃない」
遊ぶみたいに、するすると髪を指に絡める。真っ直ぐで、でもやわらかいこの髪はいつまでも触れていたくなる。勿論それは、髪に限ったことではないのだけれど。
「…じゃあ、お願いします」
ちょっと待っててね、そう言って手ぬぐいと鋏を取りに部屋へと戻る。
この家のにおいが分からなくなったのは、いつからだっただろう。最初の頃はそう、まるで親戚の家にでも来たような感覚で。
少しずつ、少しずつ馴染んでいく空気に、心の奥、甘いくすぐったさを感じていた。
「はい、こっち向いて」
瞼を縁取る長い睫毛に、どうしてだろう急に触れたい気持ちになって。その瞳が伏せられたのを確かめて軽くくちづけた。
「!総司、さん?」
「うん?」
「い、今…!!」
「あははは、真っ赤になってる」
「…もう」
赤らんだ頬は不満げに膨れてるけど、君は否定も拒絶も、まして咎めもしない。そういうのに僕が弱いこと、本当は知っているんだろう?
「切った髪が入ったら眼が傷付くからもう一回つぶって。ね?」
「はい」
やわらかさの中に、確かな熱を内包する風が頬を撫でていく。お互いに一言も口にすることなく、ただ鋏の音だけが響いていた。
「…よし、目を開けてみて。うん、大丈夫。これでおしまい」
「ありがとうございます」
先程よりもよく見える、君の笑顔が眩しかった。初めて髪を切ってあげた日からずっと、この瞬間が好きで。
穏やかな視線は僕を見て、そしてまた庭へと注がれる。
「今年もたくさん咲きましたね」
山や川、咲き誇る花達。これ以上ないくらいの命のいろに溢れたこの場所に、僕は更に種を蒔いた。
土を掘り水を与え、僕の手を借り咲いた花。それが今、千鶴の瞳に映っている。
「総司さんが花を育てるって言い出した時は、本当にびっくりしました」
「そう?簡単な理由だよ」
「…何ですか?」
「君の喜ぶ顔が見たかっただけ。君が僕のわがままで困った顔も、泣きそうになって堪えてる顔も好きだけど、嬉しそうな君が見たかったんだ」
そうして思い出一つひとつをこの瞳に、心臓の奥に刻み付けておきたかった。髪を切っている時の子供みたいな顔、花を見て綻ぶやさしい表情。その、全部を。
間違いなく君は、僕の人生の大部分と終わりを占める。でも僕は、僕といた時間は、君の人生の一部でしか、なくて。
「…総司さん」
「なぁに?」
今や君は、僕の全てだ。そしてそれは恐らく、君にも言えることで。
いつか僕が消えても君は生きてくれる、でもきっと泣くだろう?だから、僕以外に君なしでは生きていけない何かを残すよ。だから、だから。これからの君の思い出の片隅に、僕をいさせて。
「私、幸せです。あなたがいるから。あなたと、いるから」
「…千鶴、」
「総司さんに、近藤さんや土方さんがいたように。私には父様や…薫が、いて。たくさんの思い出を、私という人生を作って来たんです」
「…うん」
普段は顔を赤らめるばかりの君が、ぽつりぽつりと紡ぐそれは確かな芯を持っていて。僕はただ静かに、相槌を打つ。
「そうして、京であなたと出会って、たくさん笑って、泣いて…」
「…うん」
「もう総司さんがいない時間なんて、私の中にはないんです」
「…うん、」
「かなしいこともうれしいことも、私の全ての思い出は、あなたのものですから」
何が起きても、何があっても。あなたに染められた心が色褪せることはないんですよ。
言ってふわりと、千鶴が笑う。月色が淡く滲んで、揺れていた。
「こうしてあなたが切ってくれた髪が伸びた時、あなたが育てた花に水をやる時。その度に私は、総司さんを想うんです。忘れることも、失うことも、ないんですよ」
きゅ、と小さく裾を握る手のひら。初めて触れたのは、指を絡めたのはいつだったのか。ああ確かに、彼女の中に生きる僕がいる。僕のなかに生きる、千鶴がいる。
「…そうだね、」
酷く泣きそうで、そしてひたすらに、幸せだと感じた。指先から伝わる熱が教えてくれる。この小さな体に、その奥で息をする心に、僕が触れていない場所など一つとしてないんだと。それは君が、僕に全部を預けてくれたからなんだと。
「…ありがとう、千鶴」
僕は、君に出会えて良かった。