欲しかったものがありました。
たとえば、伸ばした腕を掴んでくれる手のひら。名前を呼べば応えてくれるやわらかい声。冷えた指先を包む確かな温度、真っ直ぐに見つめる瞳。
共に時を歩んでくれる、足。

帰る場所、迎えてくれる唯一のひと。
欲しくて、願って、望んでいました。
―――だけど私には、そうすることすら許されないとも、思っていました。

失うばかりで、なくすかりで。
何も出来ないまま、ただ流されるがままに沢山の背中を見送って来ました。私にも確かに守りたいものが、譲れないものがあった筈なのに。
そうして、無力に溺れそうになる中で、強かな光を持つあなたに出会いました。

決して喜ばしいものでは、美しく飾れる出会いではなかったけれど。腕を引く力は酷く乱暴で、向けられる視線は品定めしているようにしか思えなかった。
それでも私はあの夜、間違いなく。
あなたの光に惹かれたのです。



「………………」
「………………」


沈黙が、怖い。
それを生み出しているのが、またそのきっかけとなったのは私自身であるというのに怖くて怖くて仕方がない。
言わなければ、そう心ばかりが急いていざ言葉を紡ごうとすれば息が詰まる。まるで身体が心の臓そのものでもあるかのように動悸が全身を支配して、結局何も言えなくなって。
固く握りしめた拳は真っ白になってしまって、だけど今この力を緩めたら私は泣いてしまうような気がした。


「……千鶴。」
「っ、」


大袈裟に、肩が揺れてしまう。刹那、それを目にした千景さんの纏う空気が変わって。俯いたまま顔を上げることが出来ない私の視線は、畳に縫いつけられたまま。
立ち上がり、近付く影が私を覆う。


「何を考えている」
「!」
「話があると訪ねて来たのはお前の方だろう」
「……………」
「答える気はない、か」


言葉も、視線すらも返せない。ほんの少しだけ冷えた無骨な手のひらが私を捕まえる。問いかける言葉は乱暴さをはらんでいる癖に、どうしようもなく優しい。
やさしいから私は、不安で、怖くて堪らないのだ。


「…!!……何故、泣いている」
「…え」
「自覚していないのか…。」


つかれたため息にいよいよ居たたまれなくなってしまって、私は遂にぼろぼろと幼子のように泣き出してしまう。

「…すみませ、本当に、お手間、掛けてしまって、」
「御託は良いからこちらへ来い」


言って、答えるより先に腕が引かれる。
体勢を崩した私は、引っ張られるまま千景さんの腕の中へ。抱き込むように頭を抱えられ、視界は彼の首筋で埋め尽くされて。


「お前が泣くと黙っていない連中が多いからな。奴等の喧しさと来たら…全く、五月蠅くてかなわん」
「…っ…」
「…泣くな、とは言わん。待ってやるさ、丁度くだらん書類にも飽いていた所だからな」
「………っちかげ、さ…っ」


こわい、こわい、いとしい。
誰よりも好きで、惹かれて、傍に居続けたいからこそ、恐ろしい。
出会いがどんな形でも、過ごした時がどんな色をしていても。触れ、知った温度はひたすらに温かくやさしかったのだ。今更、離れるなんて出来ない。


「ちかげさん、ちかげさん…っ」

縋るように泣くこの姿を見るのは、一体いつぶりだろうか。見つけ出し初めて出会ったこいつはどうしようもない幼さを纏った、ただの子供だった。
己を人の身と思いこみ、人の間で生きて来た女。そこにかつての東を統べた大家たる面影など見当たらなかった。


「…、です…」
「…?何だ」
「が、できたんです…子が、」
「!」


思い詰めたような顔で千鶴がこの部屋を訪れたのが半刻程前のこと。それがまさか、こんな理由だったとは。

「…誠か」
「…っ…。…ちかげ、さん」
「…何だ」
「もしこの子が男の子だったら、私は、もう必要ないですか…?」
「………お前は、何を言っている?」


ぐずぐずと泣きながらこぼされた言葉に、思わず返す声が低くなる。震える身体を引き剥がし真正面から見据えれば、堪らないと言ったような顔でまた泣いて。

「私の…雪村の生き残りの、役目は、この家の世継ぎを生むことです。もしそれが叶うならば、私はもう、」
「―――――…馬鹿か、貴様は。」
「!」


戯れ言を吐く唇を無理矢理に塞ぎ、もう一度揺れる月色を捕まえる。
身の内に渦巻き込み上げるのは、怒りか焦燥か、それとも。


「女鬼を欲した理由は確かに子だ。俺は当主として、風間の家を存続させねばならん」
「………っ…」
「だが考えてもみろ。お前が子を産めぬ男ならば俺はお前を殺しこそすれ、探すことなどしなかっただろう。お前が女鬼であったからこそ『今』があるのだぞ」


誰でも良かったさ、あの瞬間まではな。

「それに、女鬼でありさえすれば構わぬなら、わざわざ手間をかけ奴等の元からお前をさらう必要もあるまい。…想像するだに虫酸が走るが、あのじゃじゃ馬の姫を娶れば話は済む」
「……………」
「まだ理解が追いつかぬか?………千鶴。」
「っ」
「俺は、お前を選んだのだ。この俺が、他の誰でもなくお前をな」


家も家族も、その全てを失った女。
鬼として生まれた記憶は炎に焼かれ、人として生きた時は戦に全てを呑み込まれた。
何とも、誰とも繋がりを持たぬ女―――それが、こいつだった。
ならば俺が引き留めよう。俺が、繋いでやろう。
この手で、腕で。声で、瞳で全てをとらえてやろう。


「手放すなど有り得ん。たとえお前が逃れようと請うたとて逃してなどやらぬ」
「……っ……」


そう何よりも、この血で以て。
所詮は他人同士であるお前と俺とを、永劫切れぬ縁で縛り付けてやろう。


「死するその瞬間まで、お前は俺のものだ」
「………ちかげ、さん」
「何だ」


一体こいつは何度涙を落とすのだろう、滲んだ声をすくい上げてやれば首筋に腕が絡められる。

「…私は、捕らわれていたいです。この先も、ずっと。」








与えてやりたいものがある。
伸ばされた腕を掴むこの手を、空気を揺らすように紡がれる名に応えるこの声を。この温度で冷えた指先を捕らえよう、その視線を向かせたならば逸らさせはしない。
喪失を恐れ泣くならば教えてやろう。お前の足が俺から離れることを許さぬように、俺の足とてお前の傍ら以外を歩むつもりは無いのだ。

帰る場所を、迎えるこの腕を与えよう。
孤独に震え夜に怯えるお前の手を引こう。ようやく目に見え触れられる形となった我らの繋がりを、抱こう。

忘れるな―――お前も俺も、互いの唯一であるのだから。



20111126+

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