大事な君へおめでとう、
大切な時間にありがとう。



芽吹く、咲く、実る。いのちが溢れる季節の真ん中。
温い風とやわらかな日差しに包まれて、俺達はゆっくりと家路を歩いていた。
隣を歩く千鶴はやたらと上機嫌で、対する俺はどこか足取りが重い。いつもの癖で繋いだ手、なのに纏う空気は繋がらない。

「……………」

よろこびに満たされた季節はいつだって怖い。根拠のない寂しさが込み上げて、泣きたくなってでも泣けなくて。
幸せだと、愛しいと思う程想像するのは喪失の瞬間。抱きしめた体が、絡めた指がなくなる日を思い浮かべては消してを繰り返す。

「薫?」

千鶴と出会った時もそうだった。折角やっとまた同じ時代を巡れたのに、俺達を繋ぐものは何もない。
名前も流れる血も全部違う、唯一の絆は記憶だけ―――その、恐ろしさと言ったら。記憶なんてものがどれ程不確かであるかを俺は知っていた。

「どうしたの?」

残っていた所で、それはもう傷痕以外の何物でもない。未だ熱を持ちじくじくと痛む、血が滲んだまま横たわる、

「薫!」
「!」
「さっきからずっとぼんやりしてる」
「…ごめん」
「良いよ。何となく、考えてることは分かるし」

繋いだままだった手を引いて、誰もいない公園のベンチに腰掛ける。
桜はもう散って久しいけれど、代わりにやわらかい緑が広がっていた。

「また、怖くなった?」
「…ああ」

千鶴を好きだと、愛していると想う程に怖い。
再会した日はひたすらに嬉しかった、兄ではなく男として傍らに立てる関係を喜べもした。
だが実際に関係を進めてみれば途端に怖くなる、執着と束縛と依存を繰り返さなければ息も上手く出来なくて。
ずっとずっと隣に居たい、だけどそれは飼い殺しを望んでるんじゃないか―――そう考えたら足が竦んだ。

「ね、さわって」

導かれた腹、まだ膨らみもしていないそこには確かに宿った命が在る。
数日前から変調を訴え病院へ行った千鶴から連絡をもらい、駆け付けてみれば俺は父親になると言う。
嬉しくない訳じゃない、いつかこんな日が来ることも十二分に理解していた。
―――ただ、不安は拭えない。
こんな俺が誰かを正しく愛せることなんて出来るんだろうか、壊して、傷付けてしまうんじゃないか。

「…私は嬉しいよ。ここに、薫と私のいのちを半分ずつ持った子がいること」
「…っ、」
「本当はね、ずっと怖かった。だって今の私達は何の繋がりもない」
「千鶴、」
「それが当たり前なのにね。あの頃を知ってるから、覚えてるから怖かった」

初めて聞く告白、情けないことに声が震えた。
千鶴は、俺とは違う千鶴はずっと強いと思っていたのに。不安などないと、思っていたのに。

「不確かな関係を確かなものに出来るのが、その証を抱けるのが本当に嬉しいの」

やわらかく微笑む瞳が潤み、揺れていた。こんな顔見たくなくて、させたくなくて踏み出したのに。
やわらかい日差しの中、取り残されたように涙する千鶴を抱きしめた。

「ごめん、」
「…何が?」
「また、間違えた」

指先を絡めると、触れる金属。
互いの左の薬指に嵌められた約束の、誓いの証は鈍い光を放っていた。
この指輪と紙きれ一枚で変わった関係の名前はまだ少しむず痒く、そしてひりひりと痛む。
そっと体をずらして、耳を温かい腹に押し付けた。

「なぁ、この赤ん坊が産まれたら」
「…うん」
「俺は…俺達はやっと歩き出せるんだ、きっと」

千鶴の指が俺の髪を梳く。まるで俺が赤ん坊みたいだ、なんて考えながらその感覚に身を委ねて。

「…ありがとう、千鶴」

うららか、うららか。
温かい優しい柔らかい、全てを許すような日だまりの中で知ったのは、誰よりも愛しい存在の強さと弱さ。
二人揃って泣きながら、でも笑いながらまた家へ向かい歩き始めた。

「…転ぶなよ?」
「もちろん」

早く、はやく産まれて来い。
あの頃の俺達の間には、決して存在し得なかったお前。
お前は俺達がこの世に産まれ、生きた証となる。出会い共に歩んだ絆となる。
過去は怯え縋るものではない。慈しみ愛おしみ、尊い記憶へと変えて行こう。
そうして、俺達は新しい場所をお前と歩き出すんだ。








20100620

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