良い双子の日おめでとう!!
薫千で『オペラ座の怪人』です。
どんなものでも大丈夫、な方のみ下へスクロールして下さい

























僕が奏で、君が歌う。
華やかさも派手さもなかったけれど、幸せだった。慎ましく静かで穏やかな、あたたかい僕らの家。音楽に溢れ、喜びで満たされていた帰るべき場所。
生まれ育ち、これからも暮らしていくことを信じて疑わなかった、唯一の住処。

どうして失わなければいけなかった?
どうして、奪われなければならなかった?

塗り潰し、飲み込む赤が頭から離れてくれない。刷り込まれたように何度だって視界を、思考を染めて。鼓動のようにがんがんと響く痛みが全身を覆う。
優しく、たくさんの話を聞かせてくれた父さん。いつも穏やかに笑っていた母さん。もう二人の声も、二人が奏でる音楽も聞こえない。
皆みんな飲み込まれてしまった、楽譜も楽器も、命すらも全て。
厳しい顔をした母さんが『逃げなさい』と悲鳴のように叫んでいた。『絶対に離すな』と、父さんが俺と千鶴が繋いだ手を強く、つよく握った。

熱かった。
熱くて、痛くて、暗くて、怖くて仕方なかった。

崩れ落ちて来た柱から千鶴を庇い、右の視界が一瞬にして壊された。泣き叫ぶ千鶴が、俺を呼び助けようと伸ばされる小さな手のひらが、あの夜に焼き付いた最後の記憶。
離しちゃいけなかったのに。俺が守ってやらなきゃいけなかったのに―――守ってやれるのは、俺だけだったのに。

次に目を覚ました時、千鶴は傍には居なかった。俺に残されたのは、じくじくと痛む火傷だけ。顔の半分を覆う包帯の下は醜く焼け爛れ、とてもじゃないが晒すことなど出来なかった。
千鶴を助ける為、この火傷を負ったことに後悔はない。ただ、もう揃いの顔ではないことが無性に悲しくて。寂しくて切なくて、張り裂けそうだった。


音が消えた。

歌が潰えた。

喜びも、温度もなくした孤独な世界。


家をなくし、家族をなくし醜い傷を抱えた俺に、まともな人生など歩める筈もなく。スリや盗みを繰り返しながら、見世物小屋を転々とし、ひたすらに底辺をさまよい歩いていた。
たった数年。だが俺には数十年にも感じられる長い孤独の果てに、ようやく辿り着いたのがこの芝居小屋だった。
オペラ座と呼ばれる豪華絢爛なこの建物の地下は、複雑に張り巡らされた水路により迷宮と化していた。長い年月をかけそれを改造し改築し、ようやく手に入れた俺だけの箱庭。俺だけの、遊び場。

『………っ……!!』

外と地下とを繋ぐ部屋。それが、この質素な礼拝堂だった。聖母子像と蝋燭のやわらかな光が揺れるこの暗闇で俺は、息が止まりそうになる程の喜びを手にする。

『ちづ、る…?』
『!!…だぁれ?』

生きていてくれた。傷跡もなく、生きていてくれた。美しいまま無垢なまま、生きていてくれた。
変わらない声、面影を残す真ん丸の瞳。ああ、ああ。千鶴が、生きていてくれた。
大切な家族、大好きな妹。誰より、誰より愛しいたったひとりの俺のはんぶん。

『天使、さま…?』
『……………そう、だよ。』

あんまり怖かったのかい。あんまり、悲しかったからなのかい。
あの夜の記憶は全て、千鶴の中から消え失せていた。
炎の中から千鶴を助け出した男は、そのまま千鶴を娘として慈しみ育てたらしい。千鶴はその男を本当の父と信じて疑わず、ひたむきに慕っていた。
―――そうして俺を、その父が天から送らせた音楽の使いと信じて疑わない。
辛かった。叫び出したいほどに、狂いそうな程に悲しく寂しかった。それでも、俺は。

『…お前に音楽を。歌を、与えよう』

ただ千鶴が生きていてくれるそれだけで、十分だった。
こんな醜い顔では姿を見せられない。きっと怖がらせてしまう。忘れることでお前が掴んだ安寧を、壊してしまう。
思い出さなくて良いよ、それでお前が笑えるなら。
忘れたままで構わないよ、そうしてお前が歌えるなら。
だから、隠そう。姿を現さず、正体を明かさず。たとえお前が俺を忘れようと、思い出す日が来なかろうと。再会が、この腕に抱くことが未来永劫叶わなくとも。
歌が、俺たちを繋ぎ結んでくれるのだ


俺が守ろう。咲きこぼれるその笑顔を、傷つかずに済んだその身体を、奇跡のようなその歌声を。


「泣いているのか?」
「…一人は、怖いの…。夜は、暗いのは、嫌い…」

根底に刷り込まれた死の恐怖に、お前が怯えるならば。寂しいと泣くならば、そっと子守歌を奏でよう。
決して目を開けてはいけないよ。天使さまはね、お前の夢の世界でしかお前のそばにいてやれないのだから。

「さあ、力を抜いて夜に身を委ねてごらん。お前が考えているほど、夜は恐ろしいものではないのだよ」

涙に濡れる瞼を覆い、まじないのように囁いて。そっと、優しい旋律を歌う。胸に残る共に奏でた音楽を、両親が聞かせてくれた温かな調べを。
ただ健やかに、穏やかにあれと。今度こそ、失わせはしないと、祈るように歌を紡ぎ続けた。

「ありがとう、ございます…」
「さあ、おやすみ」

お前の師であろう。父で、兄であろう。友人で、あろう。
喜び悲しみ、その全てを分かつ誰より近い隣人であろう。

「―――…………」

深い寝息を立てる唇を、なぞるようにして触れた。
温かい。この頬も、唇から紡がれるその声も言葉も、歌も。全てがやわらかな熱を持ち、そっと慰めてくれるような気がした。
皮膚とは全く違う感触の、白く冷たい仮面を撫でる。この下に押し込められた火傷は永劫消えることも、癒されることもない。
それでも千鶴のもたらす温度は、喜びは―――こびりついた妄執を、拭い清めてくれるのだ。

「俺の持てる全てを、お前にあげる」

愛を、音楽を。望むならその全てを、お前だけに与えよう。
再会を手にしたあの日から一体幾つの夜が明けただろうか。心には音楽が溢れ、歌が絶え間なく生まれ続ける。
誰に知られることもなく息絶えていく筈だったその音たちは、千鶴の歌声によって世界へと生まれ出ていく。この世の春をかき集め、花束にしたような千鶴の歌声こそが、俺の音楽に翼を生やすのだ。

「だから、どうか…」

俺だけの為に、歌っておくれ。
たとえ舞台の中央で、数百に上る観客を前にして歌おうとも。貴族を、庶民を魅了しようともその心の隅に俺を住まわせておくれ。




咲け、

の眠る揺り籠で




愛しているよ、愛しい子。
我が金糸雀、歌姫君よ。

20111125


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