記憶がぶっ飛んだ。
 そんな感じ。
 ほんの数分前の出来事だったと想うのに、ほんとういつの間にかってやつ。
 気づいたら俺は、屋上という名の「kitty」御一行様テリトリー、魔界へ来ていて。
 頬を撫でるそよ風、どこまでも青く広がる空を見上げ、気持ちのいい天気だなぁなんてことをぼんやり考えていた。

 冷たくて固いコンクリートの上、きちんと正座して、頑丈な鉄柵にそうっと背を預けつつ。
 隣には、この魔界…いや最早世界そのものを統べる絶対的な独裁者、大魔覇王様こと鷹藤光様がギンギンギラギラさり気ないわけなく降臨なさっておられまっする。
 心の中なのにまっする言っちゃった!
 そりゃあね、人間すぐには圧倒的恐怖を消し去ることはできませんからね、内心の呟きでも動揺は出てしまうものさ。

 だって、もはや俺の中で大心友のはるるだって、「〜です」を「〜だす!」って元気よく言っちゃったじゃん?
 しっかり者で働き者のお母さんはるるだって、そんなうっかりミスを披露しちゃうんだよ?
 極限まで追い詰められている満が、平然とこの場に存在できるわけがないっしょ。
 これ、常識。
 超、基本の中の基本中の基本的な定理ね。
 次のテストで出すから、全員覚えておくように!

 なーんてね。
 心の中のテンションだって、もうすっごい低め。
 満、満ん、満ちゃん?
 アナタが平凡だってこと、地球上の全生命体みーんな知っているけれども、さて、アナタはこんなにノリの悪いテンション低い子だったっけ?
 答えはノー。
 いついかなる時も、俺は笑いを忘れない。

 ノリと空気を読むことは忘れない。
 例え表に出せなくとも、心の中では常にフィーバー、アゲアゲな俺だったはずだぜ。
 どうしてこんなふうに、俺が…
 痛みはさっきよりずいぶんマシだけど、相変わらず痛み続ける胸を抱えて、この人の隣に座ってなきゃならないんだ。
 
 魔界の中に、俺達一般人が足を踏み入れるなど、本来あってはならない。
 有り得ない禁忌破りだ。
 1歩魔界へ近づこうものならばどんな呪いが降りかかるやら、それより何より生きてお里へ戻れるものか、過去に無事な帰還者が居たのだかどうだか、恐らく全生徒誰も把握していない学園伝説。
 実際問題、現在、遠目からだけど「kitty」様御一行より、実に刺々しく激しいメンチ切られまくっている。

 差し詰め、あのミジンコ以下生物何だぁ?ゴラ!ってところか。
 誰よりドス黒くビッカビカした大魔覇王様オーラが、すぐ隣に存在するお陰で、どうにか禍々しい気配のハンター共から命を獲られずに生きている俺。
 狙われてはいるけれど。
 すこしでも隙を見せたら、もしくは大魔覇王様が席を外そうものなら、きっと容赦なくボッコボコのぐっちゃんぐっちゃんだろう。

 しっちゃかめっちゃかに痛めつけられ、後にはバターになった満が残りました、とさ。
 みたいな?
 まさかの固体から液体化しちゃう系?
 どこをどう取っても笑えない、明らか大ピンチの状態に、でも俺は至って平静だった。
 いや、冷めていた。
 いや、無感覚だった。
 そう、すべてに。

 怖いよ。
 昨日から、ずっと怖いよ。
 怖くないわけがない、だって相手は「kitty」を束ねる残虐非道の鷹藤光。
 今だって、できることならこの鉄柵乗り越えて逃げ出したいぐらい、怖いはずなんだ。
 なのに、俺の中の感情やら感覚やら、錆びついたのか凍ってしまったのか定かではないが、今ひとつ稼動してくれない。

 呆然としている。
 ただこうして座っているだけで、僅かにも動けない。
 ねぇ、いつから手を繋いでいたんだっけ?
 ついさっきのこと、ひどく痛々しいと想わせる、見ているこっちまで辛くなりそうな笑顔を浮かべていた大魔覇王様は、何の魔術を行使なさったのか、いつの間にか話は終わっていて。
 いつの間にか俺の手を掴んで、いつの間にか俺の手を引いて魔界に突入したようだ。

 至極当たり前の顔をして。
 周囲…恐らく側近の皆々様方だ…のどよめきにも怪訝な視線にも当然臆することなく、威風堂々ここに存在している鷹藤光。
 俺の右手と、自身の左手を絡ませたまま。
 沈黙は金なりと言わんばかりに、静まり返っている世界。
 誰かがすぐ近くでわーわー言っている気配はあった、けど、俺の耳にはあまり届かない。

 さっき言われた言葉たちと、この天下無敵を誇る隣人の見せた切ない表情と、胸の痛みだけが俺の世界のすべて。

 こんなの、すごく嫌だ。

 

 2011-05-31 22:03筆


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