自転車(2)
たんたんたんっと、勢いつけて上がらないと、わずかでも躊躇ったら崩れ落ちてしまいそうな不吉さを漂わせている、薄っぺらい階段。
上る前に必ず、キッと最上段のゴールを見据え、上がるぞ!と決意してから、その急勾配…合計26段…を上り切る。
決して駆け上がってはいけない。
その弾みで崩れ落ちてしまうかも知れないし、何より、防音なんてあってないようなぺらっぺらの建物だから、「うるせぇ!」と誰かに怒鳴られるのがオチだ。
あくまで、リズムが大切。
そうして、たんたんたんっと、26段数えて。
でも今日は、あまりリズミカルに刻めなくて。
それはやっぱり、会う約束も何もなく、頼まれもしていないのに、初めて勝手にやって来てしまった、後ろめたさと申し訳なさと…
ちょっと、嬉しいかも…そんな気持ちが、良いリズムを生めなかった理由かも知れない。
(迷惑、だよなー…)
(ウザい、よなー…)
わかってる、わかってる。
けどさ、と、手の中の無機質な鉛の塊を、きゅっと握った。
なんてことのない、普通の鍵。
簡単にピッキングされるであろう、この2000年代を迎えた先進国において未だに存在して良いものか、疑いたくなる様な昔ながらのありふれた鍵。
まぁ、そもそも、泥棒さんだって何だって、このボロアパートに何を期待することもないだろうけれど。
そうじゃなくて。
自分も男、だからわかる。
自分の城へ、無断で押し入って欲しくない気持ち。
仕事や自分の日常の中へ、恋人と言えども、簡単に我が物顔で存在して欲しくない気持ち。
居て欲しかったら、そう言うし。
疲れている時ほど放っておいて欲しいと願ったり、男ってヤツは何て浅はかで弱くて自分勝手なんだ。
だけど。
心配、なんだ。
彼は、頑張り過ぎるひと。
なんでもひとりで抱えこんで、無茶してしまうひと。
このところ、電話もメールもしてこないのは、彼が頑張り過ぎていて余裕がなくて、そういう時には優しくできないからって、こっちに気を遣ってるだけ。
そういうひと、だから。
八つ当たりでも何でもオッケーカモン!なのに、彼はひとり、平気になるまで無理を積み重ねる。
将来の夢の為だと、笑ってみせる。
出逢った当初はそういう強さを好きになって、今はそういう弱さを心配する様になった。
今日、会えなくてもいい。
別に、自分の存在を忘れて欲しくないとか、寂しいとか、そういう感情だけじゃなくって。
ただ、心配だから。
(自分の留守に、コソコソされるなんて、ヤだろーなー…)
わかってるよ。
わかってるけど、ちょっとだけでも、彼の負ってるものを楽にしてあげたい。
俺ってどこの乙女ちゃん、とかひっそり苦笑しながら、その安っぽい鍵穴に、自分の世界に存在する物質で1番尊い宝を差し込んだ。
「おーじゃましますよっと……うっわー…ひっさーん…」
彼のささやかな城の中は、玄関入ってすぐに全貌を見渡せる。
かろうじて1DK、トータルして10畳にも満たないちいさなお城。
いつもきちんとしている城主は、しかし、世代交代してしまったのかと言うぐらいに、悲惨な状態の城を放棄して、慌てて出掛けた様だった――玄関脇にいつもきっちり積んで置く新聞が、無惨に倒れてバラバラに散らばっていた――。
「あららー…まぁ〜………うん、こりゃ、やりがいありますな!」
しばらく玄関に立ち尽くし、惨状を確認した後、ため息を吐いてから無理矢理に口角を上げ、靴を脱いで部屋へ。
肩につくぐらいに伸びてきた、脱色しまくった髪を、台所用輪ゴムで無造作にまとめて、いざ…出陣!!
先ずは換気、窓を開け、万年床と化したベッドから布団を救済して干した。
それから、そこらに落ちた衣類やタオル類なんかをまとめて、洗濯機へ放り込み、洗濯スタート。
その合間に、ゴミ集め。
仕事関連のものを間違えて捨てない様に、慎重に目を凝らしつつ、彼の最近の食生活に呆れつつ、分別してゴミ袋へ。
乱れた本や雑貨やらを所定位置へ戻し、掃除機をかけた。
続いてようやくスペースが見えてきた床を、雑巾で水拭き、乾拭き、ついでに姿見も水濡れ新聞紙でピカピカに磨いた。
もののついでに付けられた様なお粗末な台所も、溜まっていた洗い物の山を切り崩し、シンクは鏡面の如く磨いた。
よく付けられたよね!と言わんばかりの、ちびっこいユニットバスも誠心誠意磨いた。
家中がピカピカになった所で、できあがった洗濯ものを室内干し(ベランダなんかあるワケない。洗濯機を置くスペースがあるだけ奇跡なのだ)。
それから冷蔵庫を開けて、見事になんにもないすっからかんの状態に吹き出してから、買いものリストを作って、近所のスーパーへ向かった。
戻って来て、買って来たものをそれぞれに収納し、夏の日差しをたっぷり浴びた布団を取り込んで新しいシーツをかけ、ベッドを整えた。
すっかり気持ちよくなった、いつもの彼の部屋の中、親子丼のタネと小松菜のお浸しとワカメと厚揚げの味噌汁を作り、冷蔵庫へ保存。
「かんっぺき!天才じゃーん…今すぐカリスマ主夫間違いなしだネー」
自画自賛してから、携帯電話を見た。
もちろん、彼からのコンタクトは一切ない。
直に自分もバイトの出勤時刻だ。
夏の夕暮れ、あらかたの家事を終え、彼が居ない彼の部屋の中、ぼんやりと窓辺に佇んでいたら。
平和な、下町然とした街並みの、日常の音、匂い。
ラフな装いで散歩しているご老人達が、顔見知り同士、地蔵尊の前で立ち話ししていたり。
よそのお宅から流れてくる、カレーの匂い(カレーにすれば良かった!)。
どこかの犬たちが吠える声。
子供達が走り回る、大きなはしゃぎ声。
宅配便の軽トラックが立てる物音。
風に乗って、離れている筈の踏切の音まで聞こえる。
チリンチリンと、自転車のベルが鳴る音。
そんな景色を眺めていて、思い立った。
今日はもう、会わないつもりでいた。
けど、会おう。
連日残業になるだろうって、いちばん最近に会った日、言われた。
きっと今日も彼は遅い。
でも、自分だって今日はカフェレストランのバイト、遅番だし。
勝手に侵入して、勝手に片付けて食事まで作って、会わないっていうのも気味が悪い、悪いだろう、悪いハズだ。
会って、彼がどんなに疲れていたって、どんなにイライラしていたって、八つ当たりされたって構わない。
ケンカになったっていい。
会おう。
会いたいんだ。
短い時間でもいい。
なにも話さなくたっていい。
顔が見たい、どんな顔でもいいから。
もし、ちょっとでも話す時間があるなら。
この部屋を片付けるのが、どれだけ大変だったか。
しかしながら、自分の天才的な手腕に因って、あっと言う間に片づいてしまったこととか。
仕事仕事で日中屋外に出ていないであろう彼に、今日の日差しがどれだけキツいものだったか。
スーパーに行ったら、パートのおばちゃんにモテモテで、試食品をたくさん貰ったこととか。
親子丼の用意をした後に、カレーの匂いが漂って来て、後悔したこととか。
どうでもいいことを、けれどもどうでもよくない、たくさんのしあわせをたくさん話そう。
彼の話を、聞いてから。
そうして、頑張っている彼を、たくさん労ってあげよう。
なんでも最初が肝心だ。
バイトが終わったら、このオンボロアパートにも負けないオンボロ自転車で、マッハで駅前まで迎えに行って。
笑って、できるだけ明るい声で。
「タッさん、お疲れ〜!」
2010-06-23 23:24筆[ 3/26 ][*prev] [next#]
[目次]
[しおりを挟む]
- 戻る -
- 表紙へ戻る -