自転車


 「タッさん、お疲れ〜!」


 残業がやっと終わって、くたびれきって帰路についた。
 電車の中で本気で眠ってしまい、降りる駅を危うく乗り過ごしそうになりながら、改札を出た。
 生温い、夏の夜。
 暑い大気と、ささやかに聞こえる虫の声。
 疲れた身体にそれらは疎ましく、あまり優れない心持ちで、ボロアパートを目指した。
 帰ったら、洗濯をして。
 いい加減、掃除もした方が良い。
 朝の洗い物も片付けてない。

 家に着いた途端、派生する、やらねばならない日常事を想い浮かべただけで、うんざりする。

 それから…
 ああ、そうだ、家には食材どころか、インスタント食品もない。
 帰る前に、コンビニにでも寄って行かないと。
 今夜と明日の飯を確保して、帰って、片付けて、風呂に入って、仕事の下準備をして…
 今日はもう、メールも電話もできないかも知れない。
 …しないほうが、良いだろう。
 今の俺は、相手に心配かけるばかりか、不安にさせてしまうだけだろう。 
 優しくできる自信がない。

 ほんとう、疲れた…… 
 そんなことを想いながら、だらだらと、とにかく足を動かして、歩いていたら。


 「タッさん、お疲れ〜!」


 と、明るい声が聞こえた。
 目線を向けると、ママチャリに乗った、アイツの笑顔が見えた。
 たったそれだけのこと、それだけの瞬間で。


 優しくできる自信が、すぐに回復した。


 「…びっくりした…どうした、こんな時間に」
 苦笑しながら問いかけると、屈託なく笑ってる。
 「俺もちょーどバイト上がりでさ。今日、遅番だったから〜駅行ったら、会えるかなーって想って」
 「そうか」
 「んー。良かった〜会えて」
 「…そうだな」
 「ささ、乗って乗って!帰ろー」
 「ああ。…俺が前に行くか?」
 「いーよいーよ。お疲れっしょ?俺が運転するー」
 
 荷台に跨がると、すぐに動き出す自転車。
 ギコギコと、年期の入った音に、不思議と安心した。
 「……悪いが、コンビニか弁当屋にでも寄ってくれないか。部屋に何もない」
 まっすぐ俺のアパートへと向かう自転車に、家の状態を想い出し、近頃大分男らしくなって来た背中へ声をかけた。
 「あ、だいじょーぶ、だいじょーぶ!」
 「…は?」
 「勝手に上がって用意しといたから」
 
 笑顔が絶えない、まだ幼さの残る顔が、こっちを振り返った。

 「タっさんさあ、最近忙しそうじゃん?ちょい心配になって〜バイト前に部屋行かせてもらった。ごめん、迷惑かな…?」
 「迷惑なワケないだろう。鍵を渡したのは俺だ」
 「ん。で〜あんまりにもハードボイルドな不良生活送ってそーだったから、掃除とかしちゃって、メシも作って来ちゃった」
 「ハードボイルドな不良……」
 「まんまっしょ」
 笑いながら、また前を向いて、力強くペダルを踏み続ける。

 「あ、でも〜俺もバイト疲れちゃってさ〜、だからデザート欲しーんだ。コンビニには寄ってくね〜」
 「ああ。ハードボイルドな不良部屋、片付けるの大変だったろう?礼にもならんが、奢ってやる。何でも好きなもの買え」
 「マジ?!……はーげんだっつでもい?」
 「なんでもいい」
 「やったね〜!」
 途端に、機嫌良く聞こえて来たハミング。

 耳に心地良い、最新の流行曲らしいハミングを聴きながら。
 頬を滑る夏風が、先程よりも不愉快ではなくて。

 座り心地なんか良い筈がない、無機質な荷台、ここに居ることが幸福だと想った。

 バイト後、急いで来てくれたのだろう。
 うっすら汗の滲む首筋を見つめながら、家に帰れば待っている、整えられた時間に想いを馳せた。


 (仕事の準備は明日の朝で良い。)
 

 
 2009-08-10 19:14筆



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