115.あたたかい家
ちょっとドキドキしながら、呼び鈴を押す。
程なくして、わざと潜めた低い声が聞こえる。
『合い言葉をどうぞ』
「陽大の卵焼きはふっくら黄色い甘醤油味。陽大のおにぎりはほっこりまぁるい薄塩味。陽大の唐揚げはしっかりジューシー生姜風味」
「おかえりー陽大」
「…ただいまです。柾先輩、この合い言葉、止めません?」
腕を広げてご機嫌さんでお出迎えしてくださる先輩を、恨めしく見上げる。
「何で」
「なんでって。長いし、なんだか恥ずかしいし、なんの意味があるのかよくわかりませんし。人目につかないように気をつけて帰って来ますから、是非とも廃止しましょう」
「まだ合い言葉初日なのに。スパイっぽくて面白いのに…」
「なっ!そんな子犬さんが寂しくてたまらないっていうようなお顔なさってもいけません!俺は引っかかりませんよ!大体、合い言葉と言うより、単に先輩の好きな食べものって言うかお弁当のリクエストって言うか」
「ちぃっ、バレたか…!」
バレるって言うか、バレバレですし!
大好物なのは知ってますよ、先輩だけじゃなく皆大好き定番メニューですしね。
それを毎日毎日、出入りする度に唱えさせられるなんて、たまったものではございません。
バランスよくお肉だけじゃなくお魚も、そしてお野菜もたっぷりと召し上がっていただきますからね。
我が家はそんなに甘くありませんよ。
悪どいお顔でワナワナしていらっしゃる先輩に、くどくど言っている内に、いつの間にか玄関から移動させられ、コートとマフラーを脱がされていた。
「陽大、ほっぺた冷たくなってら。りんごみてえ。寒かった?」
「はい…」
温めてくださるかのように、両頬を大きな手に包みこまれる。
制服姿の俺と違って、柾先輩は私服姿だ。
黒いVネックのニットと、履きこなれたヴィンテージ感ある褪せたジーンズ、黒縁のダテ眼鏡とシンプルな装いは、制服の時よりもずっと大人びて見える。
想わずぼんやりと見いってしまった。
先輩が、次に制服を着る時は。
いや、もしかしてもう着ないのだろうか。
最後の瞬間は、どんなふうに訪れるんだろう。
「陽大?どした。お疲れさまだな。何かあったかくて甘いもんでも飲む?」
やわらかい微笑い方につられ、優しい言葉に反応して、強張った頬が綻ぶ。
「ハニージンジャーラテ、トールのホットでお願いいたします!」
「ははっ、相変わらず即断即決の男前オーダーだなー。かしこまりました。トール・ハニージンジャーラテー」
宝の山お台所に向かおうとする先輩を引き止め、作っている過程を見たいがために待機していただき、ちゃっちゃと制服から部屋着に着替える。
「先輩、眼鏡」
「んー」
「もしかして、生徒会のお仕事してました?」
「ちょっとネ。引き継ぎ事項まとめてたのと、お勉強の予習復習」
「そうですか…少しはゆっくりできました?」
「おー超ゴロゴロしてたー日中は殆ど寝てた」
「でしょうねぇ。スッキリしたお顔なさって。お弁当食べました?足りました?」
「ん、食った。サンキューな、陽大。まだあったかくって美味かった」
「まだあったかかった…?何故です…?この冬のまっ直中、いくらこのお部屋がぬくぬく仕様だとは言え、室温で置いててあったかいままなわけがない…」
「えっ。いや、あの、その」
「まして俺も先輩も早起き、朝6時に作ったものが6時間後もまだ温かいなど有り得ぬ…!さては柾先輩、早弁しましたね?!」
「いやいや、何つーか。ネ!目の前にほっかほかの弁当置いてあってさー、陽大君は学校に行っちゃって寂しかったの。我慢できなかったの…」
「なっ!!そんなお可愛らしく言っても俺には通用しませんけれども、まさか先輩、俺が出た後すぐに召し上がったんですか?!お昼にどうぞって置いていったお弁当を?!あんなにたらふく朝ごはん召し上がって、3杯もごはんおかわりしたのに?!」
驚愕はハニージンジャーラテに因って、うやむやにされてしまった。
無邪気に笑ってウィンクしてくる男前の、ラテ職人の腕前とお腹具合には平伏すしかない。
そりゃあこんなに高身長で筋肉質ですから、たくさんエネルギーが必要でしょう、大人びているとは言え先輩とて育ち盛りですし、たくさん召し上がるのが自然だけれども。
お気に入りのソファーに腰かけて、ラテでまったり、ひっつき虫の先輩の体温にほかほかしつつ追求の手を伸ばす。
「…それで、お昼はどうなさったんです」
「んー?散歩がてら職員棟の購買行って、パン買って食った」
「お散歩なさったんですか!よく見つからなかったですね…パンって、いつもの量を?」
「勿論!でもパンって腹にたまらないよねー腹へってさー寝んのもカロリー消費するもんなー。腹へったぁーはるが朝セットしてった炊き込みごはん、そろそろ炊けそうだけど先に食っててい?」
「いいわけないでしょう!ぐりぐりしない!これからごはんの仕度ですから、まだ30分は我慢していただきます!」
ぶーぶー言って、ぐりぐりしながら引っついてくる、存外子供っぽい先輩を肩越しに見やりながら。
こののんびりとした、どこか温かい時間はもうすぐに終わる。
いつまでも続かない。
例えば、先輩は先の先まで約束をくださったけれども。
俺が学校を卒業したからって、こんな風に暮らせるわけじゃないのだから。
いつになったら、どれぐらいの時間が経てば、ずっと一緒にいられるのかな。
子供の分際で分不相応なことを考えて、勝手に傷つく。
何がどうなるかわからない、先のことを気にしても仕方がないのに。
わかっていても、この時間がなくなることが怖くて、何より寂しくて仕方がない。
ふいに唇に、温かい体温が触れた。
「なんつー顔してんの、はる。何か不安になった?それとも学校で何かあった?」
まっすぐに俺を映す、光の絶えない瞳を見返していたら、不思議に力が湧いてくる。
優しい人に、笑ってかぶりを振って、まだ熱いマグカップを手にした。
「ふう…俺は目下このハニーでジンジャーなラテさまを堪能するべき緊急使命がございますので…ごはんはまだまだ我慢していただかなければ」
「ひっど!陽大様ったらドS…!」
「ふっふっふ…ああ、おいしい〜…」
「悪どい顔してもかわいーから許すけど。ペコったーはるぅ〜あんまりこの俺様を待たせると陽大から喰っちまうぜ…?」
「ひっど!柾先輩の悪どさときたら俺の手には負いかねます」
「俺はどっちからでも良い!メシが先でも陽大が先でも順番は問わない!」
「そんな凛々しいお顔されても知りません。今日はきのこの炊きこみごはんと、昨夜から仕込んだ鶏手羽と大根と玉子の煮物がメインですよ」
「え、マジでー?」
いつまでもこうして、ふたりで笑っていられるように。
時や場所を違えても、ずっと、ずっと。
俺は今できることだけを、精一杯頑張らなくちゃね。
2014.10.6(mon)23:58筆[ 732/761 ][*prev] [next#]
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