105.落ち着かない夜


 帰り支度を整え、部屋を出る。
 己以外、人の気配がない寒々しい廊下に、規則正しい足音が響き渡る。
 外界と隔てられた2枚の重厚な扉を抜けると、粉雪が吹きつけ、身を竦めた。
 この数日、少し緩和されていたものを、今夜は身体の芯から冷え込む気候となった。
 明日はまた積もるかも知れない。
 冬の終わりが近いとは言え、此所はまだ真冬の様相だ。
 まるで王者が去る事を嘆く様に、哀しく啜り泣く風の唸りにたじろぎそうになりながら、最愛の家族から贈られたストールを口元まで押し上げた。

 電話が鳴る音がかすかに聞こえる。
 凍りつく寸前の地面に足を取られない様に気をつけながら、スマートフォン対応の革手袋で操作した。
 『十八さん?大丈夫?まだ帰って来れそうにないかしら』
 快活な温かい声に、頬が綻ぶと同時に、かつてなく弱音を吐いてしまいそうで。
 大人の自分が無様な醜態を晒しているいる場合ではない。
 ひと回り以上も離れたあの子は決断し、ひとりきり全てを負って立っているのだから。

 「陽子さん…連絡が遅くなってすみません。もう出た所なので、直に戻ります」
 『そう。それなら良かったわ。気をつけて戻っていらしてね。こちらは今夜、やけに冷えるから車道が凍っているかも知れないわ』
 「ありがとう。こっちもかなり気温が下がって…あぁ、でも帰りは雪山に慣れている運転手を頼んだから」
 とりとめのない会話に、今夜程救われた事はない。
 帰りを待っていてくれる存在が、どれだけ有り難く、かけがえのないものか。
 改めて想い知る。

 「帰ったら…いや、明日でも良い。聞いて欲しい話があるんだ。構わないかな…?」
 『ええ、なんなりと。でも一先ず気をつけてね、十八さん。部屋はしっかり暖めておくから話は全部、暖かくしてからよ。どうせあなたの事だから、お食事もまだでしょう。用意しておくわ』
 礼を言って、通話を切る。
 自分の言葉はこんなに拙いものかと、気落ちした。
 言い尽くせない感謝を上手く現せない、あの子の様にはいかない。
 『十八さんは十八さんじゃん』
 気さくな笑顔と言葉を想い出し、一瞬だけ目を閉じた。

 職員専用の駐車スペースには自分の車以外、もぬけの殻だった。
 良かったと息を吐く。
 教職員達がまだ居残っていたら引き返して、帰宅を促す為に怒鳴り込む所だった。
 それ程に自分は動揺している。
 平静を保つ余裕などないのだ。
 スマートに降り立った運転手に一礼され、後部座席の扉を恭しく開かれた、その先にはまさに平静を失うしかない人物が乗り込んでいて、逆に感情が冷めた。
 「お義父さん………」
 「遅いじゃないか、嘉之。この儂を待たせるとは良い度胸じゃ」

 現れそうな気はしていたがしかし、何故、共に下山せねばならないのか。
 遅いじゃないかと申されましても、いつ仲良く帰宅の約束を結んだものか、まったく身に憶えのない捏造である。
 さっさと乗れと言われ、乗車するしかない選択肢に深く疲労を覚えながら、よろよろと乗り込んだ。
 これから数10分間、説教&ザマミロ柾め&急に芽生えたらしい孫愛&諸々の愚痴や批判トークを聞かされる、逃げ場のないドライブが始まるのかと身構えたのだが。
 常なら喧々囂々とまくしたてる論客が、今宵は奇妙に大人しかった。

 窓の外を流れる、黒々とした夜の森を眺めながら、独り言の様に言い放つ。
 「とんでもない事をしてくれたな、柾の坊は…一体どうするつもりじゃ、嘉之」
 「どうするもこうするも、あの子が提出した役員辞任届、退学届はどこへ出しても通用する正式な書式でした…職員会議でも延々と議論しましたが、柾家がそう望むのであれば、我々に為す術などありません。止めようにも止められない…無論、対策は練ります。あの子はこの学園に欠く事のできない、数々の功績を残した人材ですから。何も返していないのに、ただ苦労をさせただけでは終われません」

 君の献身に相応な何かを、ひとつどころか欠片も返していない。
 本人の意思を尊重はするが、だが、最後まで足掻かせて欲しいのだ。
 友人だと自負していながら、事情が複雑な為か、一言も頼って貰えなかった。
 不甲斐ない自分、だからこそ最後まで踏み止まる。
 大人だって頑張るのだ。
 「ふん…儂の孫の一生が懸かっておるのじゃ。精々抵抗してみるが良い。何の柾、負けて堪るか」
 むすっとした横顔には、孫だけではない、様々な事を案じる表情も浮かんでいる様だった。

 闇夜から舞い散る雪を眺めながら。
 「「それにしても、本当に付き合っているのやら…」」
 焦燥感に満ちた深い深いため息が被った後、更にため息を吐いて、それぞれの思考の波間に身を委ねていった。



 2014.9.22(mon)23:48筆


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