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 一言も発せられない。
 身動きひとつできない。
 呼吸どころか細胞分裂すら疎かになっているだろう。
 ガチーンと、何億年もかけてできあがった地層のように固まって、無心に努めるしかない。
 ああ、早くこの時が過ぎますように。
 俺がこんなに意識していることに、敏い柾先輩がどうか気づきませんように!

 無の境地、無、無、無と心の中で書道をしても、1度騒いだ心臓はなかなか落ち着きそうになかった。
 残像がいつまでも目の前をチラつく。
 先輩は何も意に関せず、変わらない姿勢のまま、巧みにマウスを操ってネットサーフィンを楽しんでいらっしゃる。
 鼻歌混じりなのがいっそ小憎たらしい。

 このイケメンさんめ!
 だ、だ、抱きしめられた時だけではなく、日頃からちょっと注意深く見ていればわかると言うか、薄着の季節などにね、筋肉の付きっぷりとか骨格のがっしりさは大体見てとれるじゃないですか。
 男前同盟の大先輩である、優月さん、満月さんにも重々お伺いしておりましたし、心春さんからは先輩の腕の節や筋肉の付き方について熱いレクチャーを授かったこともあります。

 男なら誰しも憧れるお身体、スタイルの持ち主さんでいらっしゃるのは、周知の事実。
 運動神経も抜群で、華の喧嘩道でも不敗神話を誇っておられ、武道の心得も間違いなくお持ちだ。
 そんな御方がナヨナヨなさっておられるなど有り得ない。
 けれども予想の斜め上を遥かに行くと言いますか、驚天動地とはこのことなのか!
 視界に入る腕すら、もう直視できない。

 何てお身体をなさっておられるのか。
 下はスエットを着用している、しかし上!
 昨日はお風呂後、ちゃんとTシャツ着用なさっておられたのに、何故今朝は上半身裸なんでしょうか。
 冬の朝ですよ?
 雪が積もる程の外部からご帰還なさり、シャワーを浴びた後ですよ?
 お風邪召されたらどうなさるおつもりか。

 いや、お風邪などぶっ飛ばしそうな、強靭な肉体であった。
 想い出しかけて、更に騒ぎだてそうな心臓に待った!落ち着いて!と要請した。
 けれどもそう想えば想う程に、見事な胸筋や腹筋が瞼の奥に甦ってくる。
 しかも筋肉に関して素人ファンの俺が物申す場面ではないけれど、恐れながら言わせていただくならば、研ぎ澄まされたお身体といった印象だった。
 
 何と言うのか、ファッションや見せかけじゃない。
 自己満足のための鍛え方ではなくて、実戦的なんだ。
 逃げることも戦うこともできる、陸地でも水中でも動ける。
 すごく俊敏で、一切無駄のない、戦うための身体と言うのか。
 サバンナを走り抜けるライオン。
 大自然の中に在って違和感のない、摂理に乗っ取った存在感。

 柾先輩からはやっぱり、自然の風を感じる。
 吹き抜ける、緑と陽の匂いがする風、広がる青い空と海。
 ファッショナブルな男前のくせに、服を除けたら野生的な男前だなんて。
 神さまは何物を柾先輩にお与えになったのだろう。
 与えられたものをより磨き上げているのはご本人だ、何と戦うために、ここまで鍛えなさったのか。
 
 どうしたらこうなるのか。
 おへそピアスには賛成いたしかねますが、鍛え方のレクチャーを是非お願いしたい。
 今1番の願いは、一先ずこの態勢を取り止め、ちょっと距離を空けて、何でもいいから着替えていただきたいことだけれども!
 俺の心の葛藤が始まってから、何分経過したものか。
 鼻歌混じりでニュースを流し見た柾先輩は、何と最後に株価までチェックなさって、「ま、こんなもんか」と呟かれた。

 「サンキュー、邪魔したな」
 「い、いえ…」
 御殿にお邪魔しているのは俺ですから、とにかくすぐ退いてくださいませ。
 朝ごはん作ったり、お土産パンいただいたりして、俺は大忙しなんですから。
 これでやっと何処かへ去ってくださるだろうと、俺の期待とは裏腹に、この態勢は崩れなかった。
 何故だろう。

 先輩の視線を、横顔でめっちゃくちゃ感じます。
 この御方、間違いなく人の顔をじーーーっと眺めていらっしゃいますよね。
 凶器の眼差しと目を合わせたら、今ばかりはとんでもなく大変、必死でパソコン画面を眺めるふりをすること、何分経っただろう。
 もういいでしょう。
 俺の顔が面白いのはわかりました、どうせ面白要員ですしね。
 わかったから解放していただけませんか。

 どんどん顔に血が上ってきているんですが。
 このままだとほんとうに顔面でお湯が沸かせますよ。
 自信があるんですからね、俺は。
 「陽大」
 先輩の声が聞こえた。
 そちらを振り返る間はなかった。
 振り返るつもりもなかったけれど。

 態勢がやっと崩れたと想ったのも束の間。
 「っんぅっ…」
 何が何だかわけがわからない内に、キスされていると気づいたのは少し経ってからだった。


 
 2014,7,31(thu)23:13筆


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