48.思ひけるかな
あったかい腕の中、触れた唇が離れて、恐る恐る目を開けると、この上なく優しい瞳が微笑っていて。
遠かった距離が、今はこんなに近い。
不思議だと想った。
夢じゃないだろうか。
俺にとって都合のよすぎる夢。
遠くても近くても恐ろしいぐらいに整った容貌が、また近づいてきて、途端にちょっとパニックになった。
「お、俺は恐れながら初心者なものですから…!どうぞお手やわらかに!何卒!」
お顔の前に突き出した手を、きょとんと見つめて、柾先輩は苦笑した。
ころころ変わる、表情の全部がやわらかい。
こんなにやわらかなお顔をする人だったんだ。
「俺とて別に上級者じゃねえけど?」
「またまたご冗談を」
何を仰られますやら!
心春さんや凌先輩にお聞きするまでもなく、このような稀代のイケメンさんが今まで何ごともなくフワフワお育ちになるなんて、世間がお許しにならないことでしょう。
想わず失笑していると、悪どいお顔でニヤリと笑われた。
「ホントだって」
「へ?!ちょ、っと…」
まだ突き出したままだった手を取られ、誘導された先は、先輩の胸の辺りで。
がっしりした筋肉の存在を感じつつ、その鼓動を知った。
「な?」
ドヤ顔で小首を傾げておられる、余裕さえ見える先輩の心臓も、俺と同じぐらい早鐘を打っている。
よくよく気づけば、手を取る長い指も、かすかに震えているようだった。
柾先輩も、同じなんだ。
緊張か動揺か、いずれにせよ今、感情を揺さぶられておられるんだ。
胸がいっぱいになって、もう何も言えなくて、ただ綺麗な瞳を見上げた。
ふっと息を吐いた先輩の唇が、額に、頬に、目元に、唇に静かに触れてくる。
今度は自然に目を閉じて、その温もりに身を委ねた。
時間の感覚がわからないまま、しばらくそうして触れていた。
すごく緊張する、少し怖い、どういう風にしていたらいいのかわからないけれど。
されるがままに抱きしめられた体勢のまま、居心地が悪くなくて安心していた。
久しぶりに感じる、穏やかな時間に、気恥ずかしさは消えないけれどなんだかほっとする。
このまま側にいたいなぁって。
離れたくないなって、分不相応に贅沢なことを想った。
眠ってしまいそうだ。
柾先輩は、あったかい。
ぼんやりしていた耳に、チャイムの音が聞こえて、はっと現実に戻った。
ずいぶん遠くで鳴っているように聞こえるけれど、間違いなくチャイムだ。
あれ、そもそも今、何時?!
大体俺は、日誌を取りに職員室へ向かう途中で、確かその時点でお昼休み終了間近で。
さーっと血の気が引く俺を抱えたまま、先輩は冷静に腕時計を眺めておられる。
「6限終わったな、これ」
なんですとーーー?!
5限だけじゃない、6限までも終わったと?!
チャイムの音、聞こえなかったのに?
なんということでしょう、生まれて初めてエスケープしてしまった。
しかも2限分も!
ショックで固まる俺の頭を、なだめるように撫でながら先輩はふと、真摯な表情になった。
「授業は〜生徒会役員権限で免除扱いにできる。取り敢えず俺と仕事してた事にしようぜ。ちゃんと言っておくから、陽大は心配すんな。ノートは心春達が見せてくれんだろうし、わかんねえ所は教えるから。それより、これからだな」
これから。
ドキっとして、先輩を見上げる。
美山さんやひーちゃん、一成、たくさんの人たちのお顔が浮かんだ。
先輩の親衛隊さんたち、富田先輩や片前さんたち、そして。
「俺がどうにかする。陽大にも手伝って貰う。けど、当分秘密にしとこっか。いつまでも秘密にしてんのは、陽大も俺も性に合わねえから、短期間限定で」
「はい…柾先輩、あの…」
「ん?」
喉が鳴った。
優しい瞳に励まされて、拳を固め、どうにか口にする。
「先輩は、婚約者さんがいらっしゃるのでは…?俺、は邪魔したくない、です…」
俯く俺に、予想外な反応が返ってきた。
「は?婚約者ぁ???誰に?俺に?」
素っ頓狂なお声のまま、目が点になっている先輩を見上げる。
「え…あの、夏休み前の号外で…って、柾先輩だって否定されなかったじゃないですか」
「夏休み前の号外って何かあったっけ。…あ?あーアレな。陽大、真に受けてたんだ」
「だって!いえ、俺だけじゃなくて、皆さん信じていらっしゃいましたし…富田先輩のインタビューとか…それに俺、先輩が『れな』さんとお電話なさっておられるの、目撃したことあります!」
「んー…そっか。何か陽大の中でややこしい事になってんな。また改めて話すけど、婚約者なんか居ねえ。つーか、居たら陽大に告んないっつーの」
おでこを突つかれてむうっとなりつつ、ほっとしていた。
今日1番、ほっとしていた。
「取り敢えず、そろそろ行こっか」
頷いて立ち上がったら、不自然に座っていた影響でふらっとなり、すぐ支えてくれた力強い腕にそのまま抱き寄せられた。
立ち上がると、身長差が気になりますねぇ。
「先輩、ホコリ、ホコリ」
「ん?んーサンキュ」
身長差と背中についたホコリを払うことに気を取られていないと、このまま、離れられなくなりそうで、それはとても怖いことだと想った。
「なーんか離れたくねえなぁ」
頭の上でため息が聞こえて、同じくと心の中で同調しておく。
「あ、わかった。陽大、今日予定ある?」
「え?特に何もございません」
「じゃ、夜会お」
「はい?」
「つっても俺が動いたら悪目立ちするからな…ウチ来いよ。裏道使ったら誰にも見つからねえし、生徒会終わったら連絡する。あ、今日金曜じゃん。泊まってゆっくりして行きな。名案!流石俺、決まりー」
後でまたメールするって。
頬に唇が触れて。
呆然としたまま手を引かれ、階段を降りた。
事態がよくわからないまま、1階に戻って来て、辺りを警戒しながら歩き、こんな人気のない校舎でいつまでも一緒にいたら要らぬ噂を呼ぶからと、分岐点で離れることになった。
「また後で、陽大」
「は、はぁ…」
輝く笑顔に背中を押されるように歩き出して。
『ウチ来いよ』?
『泊まってゆっくりして行きな』?
『名案!流石俺』???
そもそも俺は、柾先輩と。
気づけば猛ダッシュして、1年生の校舎へ向かっていた。
2014.7.20(sun)23:48筆[ 665/761 ][*prev] [next#]
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