46.命さへ


 蹲るように膝を抱え、見られたくないと膝に顔を埋めた。
 階段を上り切った足音が、側まで近づいてくるのが聞こえる。
 荒ぶった呼吸をどうにか整えてから、やっと声を振り絞った。
 「…放っておいてくださ…っ…だい、じょぶです、からっ…」
 お願いだから。
 見られたくない、みっともない姿ばかりを。
 迷惑になんかなりたくないのに、どうしていつも上手くいかないんだろう。

 「…走んの早ぇよ、陽大…」
 声が、近い。
 顔を上げるまでもなく、すぐ近くに柾先輩がいることを悟った。
 すっと空気が動いて、目の前で膝をついた気配を感じた。
 そのままの姿勢で後退したものの、すぐにがしゃんと背に硬い扉が当たり、行き場がないことを痛感した。
 やむなく抱えた膝により強く顔を押しつける。

 「な、んでもない…んです…大丈夫、ですから…構わな、でくださ、い…お願い、」
 言葉は続かず、消えていった。
 どうして。
 どうしてこの人は、こんなにあったかいんだろう。
 肩越しに呆然と、閉じていた目を見開く。
 抱きしめられていることが信じられなくて、明かりとりから漏れるちいさな光を、ぼやけた視界で見つめていた。

 とんとんと、背中や肩を撫でる手が優しい。
 微睡みそうになるぬくもりに、逆に目が冴え冴えとした。
 俺が触れていい人じゃない。
 こんな風に優しく接していただける資格なんてないのに、鼓動だけが正直で、すがりたくなる手を強く握り締めた。
 「大丈夫じゃねえだろ…全然大丈夫じゃねえじゃん。良いから寄っかかってな」
 俺から離れるべきだと、懸命にかぶりを振る。

 「…放っておいてくださいっ…」
 その時、頬に大きな手が触れた。
 目が合う。
 深い色の温かい瞳の中に、とんでもなく情けない顔をした俺がいる。
 それなのに柾先輩の瞳は、冬の星空よりも煌めいていて、大らかに俺を見ていた。
 まっすぐで、やわらかい。


 「惚れてる奴が泣いてんのに放っておけるかよ。良いから何も気にすんな」


 けれど、その瞬間、重たい目を見張った。
 今、何て?
 逸らしたかった瞳を、探るように見つめる。
 俺の聞き間違いなのか、浅ましい望みからの幻聴か、言葉のあやなのか。 
 揺るぎなく俺を見つめ返す柾先輩は、何も気づいておられず、特に意味のない一言だったのだろうと想い直したのに。

 「あ、やべ。今の、言っちゃダメなやつだった」

 こんな時じゃなかったら、笑っていたかも知れない。
 何ですか、それって。
 どういうことですかって。
 表情を変えない無邪気な発言に、止まっていた涙がぼろぼろと零れ落ちた。
 涙の合間に、珍しく困り顔の先輩が見える。
 長い指が躊躇うように伸びてきて、頬や目元にそっと触れるのを視界の隅で認識した。
 

 「俺は陽大が好きだ」


 まっすぐに、正面から揺さぶられる。
 いろいろな想いが駆け巡る。
 たくさんの人たちのお顔が浮かんだ。
 「だから放っておかない。泣き止むまで側に居る。大体、ここ何処だよって話だしな…ま、後でどうにかなるか。ちゃんと送って行くから、陽大は取り敢えず吹っ切れるまで泣きな」
 目の前の人はもう、困り顔から一転、屈託なく笑っている。

 ぽんぽんと頭を撫でられて、抱き寄せられて。
 俺は。
 何も求めない、泣く理由さえ聞かない優しい人の腕の中で、何をしているのか。
 柾先輩は、伝えてくださったのに。
 俺は何もお返ししないのか、いや、返せるものなんて何も持っていないけれど。
 このまま黙ったまま、ありがとうございました、いつもご迷惑おかけしてすみませんって、終わっていいのか。

 よくない、でも先輩にとってはそのほうがいいんじゃないのか。
 「好き」にも種類があって、もし俺の勘違いだったら、俺の想う「好き」と先輩の「好き」はまったく別物だったら?
 わからない、正解が見えない。
 どう動くことが、この人の幸せになるのか。
 皆さんは?
 俺はどうしたいのか。

 『もう何も我慢しなくて良いのよ?』
 ふと、母さんの声が耳に甦った。 
 『あなたの気持ちを言葉で現して良いの』
 我慢しなくていい?
 俺の気持ち、俺は。
 気づいたら触れられずにいた先輩の、シャツの袖をきゅっと握りしめていた。



 2014.7.20(sun)20:40筆


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