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 彼らが戻って来た時、室内は相変わらず重い空気に包まれていた。
 子供達は誰も口を開いた様子がない。
 ここにあるのは、後悔と疲弊ばかりだった。
 「陽子さん、ありがとう。私が連れて帰るより良いと想って、ね」
 「お気遣いありがとう、十八さん。…良いのかしら?」
 短い問いかけに、理事長は苦笑する様に笑った。

 「状況が状況だけに、簡単に説明させて貰ったよ。この子達は口が堅いから」
 「それなら良かったわ」
 「荷物は後で手配する。車まで私がはる君を運ぶよ」
 「ええ、ありがとう。今、昴君にお願いして陽大の様子を見て来たの」
 ぎくりと強張る子供達の気配、銘々の反応を、前陽子は穏やかに見渡した。
 「あの子、よく眠っていたから、大丈夫」
 会話の矛先は理事長に向けられているのに、大丈夫よ、心配しないでと、1人1人に語りかける様な口調だった。

 「少しだけ、皆さんにご挨拶しても良いかしら?あと、一舎君と仰ったかしら、その方にもお会いして良い?」
 「陽子さん…」
 「話したいことがあるの。どちらにいらっしゃるかしら。案内していただける?」
 「…それには及びません。呼んで来ます」と誰より敏捷に昴が動き、またも取り残された面々は、一瞬の安堵から緊張へ呼び戻され、肩を強張らせるしかなかった。
 前陽子は朗らかな双眸を崩さないまま、顔見知りを数人見つける。

 「あら!仁君、一成君。お久しぶりねぇ、あの子の言ってた通り、イケメン度アップしてるじゃない。そちらの皆さんが『武士道』さんなのね?」
 「陽子さん、ご無沙汰っス」
 「「「「…こんにちはっス」」」」
 「いつも陽大がお世話になっています。『武士道が学校にいた!』って、あの子ったら大喜びだったのよ。ありがとう」
 「…陽子さん、俺らは、」

 顔色の優れない一成が絞り出した声に、彼女はゆっくりと首を振る。
 「一成君、いつもありがとう。他の皆さんも、本当にあの子がお世話になって…皆さんのお話は陽大からよく聞いています。皆さんのおかげで毎日とっても楽しいって、どんなに助けていただいているかって、学校の話をするあの子はいつも幸せそうで、わたしも嬉しかったの。直接お礼を言いたかったから、お会いできて良かったわ。どうもありがとう」
 全員と順々に視線を合わせ、やわらかく微笑む。
 
 「昴君にもお話したけれど、今日は陽大を連れて帰ります。陽大にはゆっくり休む時間が必要みたい。これからのことは家族で相談して決めます。その結果どうなっても、わたしも…恐らく陽大も、皆さんに背負って頂くことは望みません。自分や他者を責めても何の解決にもならない。わたしは、陽大にも皆さんにも、極端な無理をして欲しくないの。あなた達にはあなた達の日常がある、背景がある。お互いの為に、それぞれの日常をこなしていくしかない。時間は流れ続けていくから」

 決して大声を出していない。
 穏やかな声と言葉は、けれどそれぞれの胸に響いて、それぞれに相応な形で残った。
 そこへ昴を先導に、風紀委員に両脇を挟まれた一舎が入って来た。
 白い紙の様な顔色以上に、その姿はまるで抜け殻だった。
 魂の抜けた後の肉体、支えられて立つのがやっとの状態だ。
 昴が短く紹介し、引き合わせる間も、彼の目には僅かの光も揺らぎも浮かばず、虚ろに床を見つめている。

 「一舎さんね。わかりました。はじめまして、前陽大の母です」
 そんな彼の前に立ち、屈託なく笑いかけたかと思うと、次の瞬間。
 「初対面なのにごめんなさい」
 バシッと、鋭い音が響いた。
 誰もが目を見張り、呆然とする。
 よろめく一舎の頬は、今初めて血が通ったかの様に、瞬時に赤く腫れた。
 やっと気づいたといった素振りで、色濃い陰を宿したままの視線が上がる。

 
 「一舎さんはご存知かしら。ひとつひとつの命が重いと言われる理由。
 それはね、ひとつの命に対して、数えきれない無数の命が関わっているからなの」


 闇を恐れずまっすぐに見据え、穏やかに照らす光は、ただひたすらに温かかった。

 「家族や歴史もそうだけれど、仕事や学校、衣食住のすべて、人と人の関わりだけでとんでもない命の数になるわよね。更に食べることは他の命をいただくことで、あと、人の数よりも多い自然の命の流れも加えると、本当にとんでもないことだわ。だから命は重いの、自分も他者も、人だけじゃないあらゆる命すべて、軽く考えられないの。

 あなたの動機は知らない。わたしがわかることは、少なくとも清潔なベッドで寝て、食事を摂れて、こんな素晴らしい自然に包まれた環境で勉強できていること。あなたにも様々な事情や想いはお有りでしょう。頭ごなしに否定も肯定もできない、わたしにそんな権利はないわ。けれど、戦争も貧困も食糧危機にも遭っていないことはわかる。ご自分で選び取れる現実が少なからずあるということも。
 これが幸せじゃないって言うなら、これで満たされないって言うなら、世界の何処へ行ったって、幸せなんかないのよ」

 「陽大がもし、今回のことで命を失う事態になったら、2度と笑えない人生になってしまったら、陽大に関わっているすべての人が一生消えない傷を負うの。人は忘れることができる、前に進む力を持っているわ。けれど1度受けた深い傷は、完全に消えることはない。克服したと想っていても、ふとした瞬間に起爆する危ういスイッチとして、いつまでも残ってしまうのよ。

 あなたは、陽大に関わるすべての人に対して、何ができる?謝れば良いと想っている?命を差し出せば良いと簡単に考えている?残念ながら、命を命で償うことはできないのよ。あなたがどんな責任の負い方をしても、誰の何の救いにもならない。1人の一生だけでも重いのに、あなたは大勢の苦しみを背負える?大勢の命の果てに、更に続いていく新しい命もあるのに?

 …あなたがしたことは、そういうことです。人を傷つける重みを知って欲しくて、お話しました。わたしがあなたに望むことはそれだけです。手を上げて一方的に話してごめんなさいね」

 息する音も聞こえない様な、これだけの人数が揃っていることが信じ難い程、静まり返った室内を、規則正しい足音が横切って行く。
 場を騒がせた謝罪と深い一礼の後、彼女のパートナーと共にヒールの音がどんどん遠ざかって行っても、暫く誰も動けないままだった。



 2014.5.14(wed)23:59筆


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