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やがて時間をかけて開かれた、やけに透明な瞳が、怖々と自分を映す瞬間を、1秒も逃すまいと見つめた。
「………まさき、せんぱい…?」
ちいさな子供のように頼りない言葉に、大きく頷いて微笑を浮かべて見せた。
まだ壊れていない。
まだ、心はしっかりとここに在る。
今は、まだ。
「おれ……?」
身体を起こそうとして。
何気ない筈である動作に、眉を顰めて短く声を洩らし、そのささやかな一連の顔の動きにも強張る表情。
支えて半身を抱え起こしながら、何ひとつ見逃すまいと静観した。
ゆっくりと、頬や瞼を腫らした不自由な顔が、現実を認識していく。
こちらを恐る恐る見てから、場所を確認し、手足に残る痣や傷を確認し、被せられたブレザーを確認し、再びこちらを見て。
驚きに目が見開かれていくのを、注意深く見守る。
「…あ……?おれ……」
瞳が揺れたと想ったら、恐怖の記憶に襲われたのだろう、肌が粟立ちガタガタと音が鳴りそうな勢いで震え始めた。
「陽大…、」
手を触れようとした、それを避ける様に後退され、背を向けられた。
震える声が拒絶を述べる。
「…み、見ないでくださ…っ……放っとい、て…っ」
必死に、何かを堪える様に丸まる背中はあまりに華奢で、その背に残るシャツの残骸に靴痕を見つけて拳を握り締めた。
違う、自分の怒りは、この恐怖には及ばない。
懸命に堪えて、頼りない肩に触れる。
「陽大」
「…ひっ…!」
強く触れたつもりはない。
だが、最悪な記憶に結びつく行為に相違なく、悲鳴を上げた彼は、彼からも逃れる様に後退り続けて首を振った。
「……ごめんなさっ……俺、はっ、大丈夫、ですから…放っといてくださいっ!!1人にしてっ!!」
こんな声を荒げるのを、初めて見た。
いつも穏やかで、にこにこ笑っていた。
のんびり話す口調に、誰もが癒されていた。
たまにお母さん化して誰かを叱る時だって、それは愛情故の厳しさで。
こんな声、聞いた事がない。
絶叫する様な懇願に、正面から撃たれて粉々になった心持ちになった。
傷に触ったのだろう、肩で息をして、座り込んでいる姿勢すら辛そうだった。
それでも尚、怯えたまま、どうにか自分を守ろうとする様に腕を抱きしめ、誰も居ない所へ逃げ出そうとする。
我慢していたものが、決壊しようとしている。
乱暴されている間もずっと堪えていたのだろう。
そういう人間だ、いつも自分の内に抱えこんで耐え忍ぶ、弱味を見せて周りに迷惑がかかる事を恐れる。
だから自分を遠ざけようとしている。
わかっていて独りにできるわけがない。
もう2度と、彼を独りにするわけにいかないのだ。
少しでも躊躇えば、彼は2度と自分の所へ戻って来ない。
どうしようもなくそんな気がして、傷に触らない事を願いながら、強く抱きしめた。
それまでの無抵抗を覆す様に、ひどく暴れられた。
「…ぃやっ…嫌だっ…放してっ!!おねが…放してっ!!」
「陽大」
「俺に、触らなっ…いで…嫌だーーーっ!!」
「陽大…」
「……ひっく…うっ…もう、嫌だっ……触らないでっ、来ないで…!!」
「陽大!!」
虚ろに記憶を辿る瞳を覗き込み、腫れた頬に労る様に触れる。
涙も流せず嗚咽を零し、震え続ける背を撫でた。
「俺が悪かった。ごめん。全部、俺が悪かった。助けるの遅くなってごめん」
涙を流せない彼の代わりの様に、頬を一筋だけ、熱いものが伝っていった。
呆然と意識を中断させ、それを眺めていた顔が、見る間にくしゃくしゃに歪み、現実へ戻って来た。
何かを言いかけては口をつぐみ、真っ赤になりながら葛藤を留めようとする、彼を深く抱きしめる事しかできなくて。
「…誰も見てねえよ…良いから、全部吐き出せ。側に居るから…」
途端に決壊した涙を、シャツの胸元に感じた。
良かった、生きていると。
その熱に改めて安堵し、抱きしめる腕を強めて、背中を撫で続けた。
「…こ、怖かっ…っ…」
「あぁ…怖かったよな。わけわかんなかったよな…」
「…ううっ…う…っうっ…」
「痛かったよな…辛かったよな…よく頑張った。陽大は、よく頑張った」
遂に声を上げて泣き出した、彼のちいさな背をずっと撫でていた。
2014.5.11(sun)23:13筆[ 614/761 ][*prev] [next#]
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