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なのにたった今、その夢を奪われた。
目の前で広がる光景に、身体の奥底から揺さぶられる様な感覚を味わいながら、立ちすくんでいる。
信じられない。
目を疑うとは、まさにこの事だ。
どんなに目を凝らしても、瞬きを繰り返しても、思い切って目を閉じてみても、これが現実だという事に変わりはない。
信じられない。
『こんな下らない娯楽にいつまで現を抜かしているのか』
『心春ちゃん、「コレ」はあくまで貴方の教養を高めるお勉強の1つなんだからね?ここまで弾けたらもう十分よ』
『君には他に為すべき事が幾らもある』
『心春坊っちゃんは良い子ですものね。さぁ、皆様を困らせてはいけません』
『こはる、つよくなれ。こはるのぶきをみがけ』
そう、言われたから。
ピアノを取り上げられても、泣かなかった。
弾く事を咎められるのを恐れ、家ではもう見向きもしなかった。
あなたが言う様に、ピアノはどうやら僕の武器にならなかったらしい、それならば潔く諦めて別の武器を見つけようって。
強く、もっと強くなろうって想ったんだ。
本当は大嫌いなこの女顔と華奢で小柄な体型を、大いに利用してやろうって。
利用できそうな権力を持つ大人や子供には、自分を押し殺して、精一杯愛想を振りまいて来た。
面白い様に上手くいったから、自信がついて、大嫌いな自分を胸の奥へ仕舞い込んで、明るく過ごせる様になった。
いつか、あなたの隣に立ってみせる。
明確な目標が生まれて、だからこそ今まで自分を磨き続けて来た。
例え叶わない夢であっても…あなたは誰より抜きん出て素晴らしい御方で、学園で色恋沙汰のトラブルを一切起こさなかったから…この時間は決して無駄じゃないだろうって言い聞かせて来た。
初等部の段階で発足された、あなたの親衛隊に所属し、ひたすら上を目指して努力し続ける内、僕はそれなりの位置に這い上がった。
やっとあの1件以来、目を掛けて貰える様になった。
気軽に声を掛けて頂ける、この日の為に頑張って来たんだと。
でもこれからが勝負なんだと、歓喜の涙を流した、あの時の感動と決意は忘れた試しがない。
中等部では遂に、富田先輩が高等部へ進級したと同時に、親衛隊総括隊長まで上り詰めた。
柾様の信頼がなければ絶対に立てなかった、決して安易ではない立場だ。
だけど、より気安くお声を掛けて下さる様になった、距離が縮まって行く至福、信頼して頂けている事に、重責も圧力も苦にならず、誠心誠意務め上げた自負がある。
未来の自分の為、ずっと胸に灯し続けて来た夢の為…そして、敗れ去って行った同胞達の為にも、僕は努力し続ける。
ねぇ、それなのに。
ねぇ、どうして…?
僕が何年も何年も地道に積み重ねて来た努力が、これでは余りに滑稽じゃないの…?
君は知らないだろう。
この学園の誰もが、君が今気安く接している、その御方の目に留まりたいと熱望している事を。
恋人が無理なら友達、それも難しいならせめてクラスメイト、顔見知りの先輩、後輩…いっそどんな形でも良い、憎まれても良いから一瞬でも意識して欲しい。
柾様の敵も味方も凄まじく多い、それはつまり、誰もが彼の人に何らかの執心を持っているという事。
何ら興味を得られない人間は、無視されるだけだから。
それを、何も知らない君は、あっと言う間に柾様に近づき、易々と誰より近い位置に居るのはどうして?
あぁ、そんな風に軽口を叩いて貰えて。
そんな風に触れて貰えて。
そんな風に見つめて貰える。
僕はこうして、遠くから見ているだけだ。
今朝早く出て来たのには理由があった。
体育祭本番へ向けて、各チーム共に極秘の早朝練習を行う事が多い。
他チームのどの種目参加者が鍛錬を組むつもりか、どんな作戦を仕掛けて来るか、探るつもりで無謀な早起きを実行した。
有益な情報を得たらチームの為…、柾様のお力添えになれるから。
まだ明け切らない空の下、山の冷気に震えながら鼻歌混じりに飛び出して来た、それがこんな無惨な現実を突き付けられるなんて。
どんどん冷める思考の中、指だけが冷静に動いて。
一部始終を逐一、携帯で撮影した。
常に敏い柾様が、こうして目撃者が居るとは気付かず、あの子だけを見てあの子だけを守り、あの子だけに笑い掛けているのが、何だか滑稽で。
それ以上に、胸が痛くて痛くて、何もかも崩れてしまいそうで、怖くて。
事情は薄々わかる。
大方、同種目に出場する事になった不慣れな君の為に、柾様から提案して下さったんだろう。
人目に付くのが困る事はよくわかる、敢えてこんな時間帯を選んだんだって。
楽しそうに食べているお弁当は、そのお礼という所だろう。
だから?
それが何?
ねぇ、言ったよね。
最初に言ったよね。
柾様に近付くなって。
僕の気持ちも立場も知ってるよね?
自分が今、どれだけ危うい立場に居るか、それだって何度も号外になったんだから、いい加減わかってるでしょ?
殊勝なフリして謝罪して、でも、また君は問題を起こす、その繰り返し。
自覚がないの?
天然なの?
ねぇ、だとしたら相当質悪いよね。
友達の気持ちも無視して、何故、誰もが焦がれるその温かい場所で、安心して笑って居られるの。
僕の心は、黒一色で。
撮り続けた、フォルダ一杯の写真を、無情に見つめた。
わからないなら、わからせてあげる。
やりきれないこの苦い想いを、君にも丸ごと、味わわせてあげる。
想い知れ。
僕は君を許さない。
…黒一色の筈なのに、細い細い、絹の糸の様に繊細な光が、僅かに差していた。
昇り始めた朝日に照らされた、澱みのない2人の笑顔が映る1枚を見た時、今まであった出来事のどんな瞬間よりも、無性に泣きそうになって唇を噛んだ。
なかった事にして、その1枚を消去し、携帯を閉じた。
2011-12-12 23:59筆[ 462/761 ][*prev] [next#]
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