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 幸い誰に見咎められる事なく、寮へ辿り着いた。
 1つ懸念が消えただけ、完全に自室へ入って扉を閉めるまで、安堵できないが。
 腕時計に目をやり、そろそろ運動部の朝ジョグ組が動き始める頃だと想った。
 理事長室からのランニングを終え、呼吸を整えてから、馴染みの管理人に挨拶をし、エレベーターへ乗りこんだ。
 大がかりな木製の造り、きらびやかな装飾が施された箱の中でも、気を抜かない。
 
 この学園は、セキュリティが厳しい。
 特に己は、四方八方から注視されている。
 広大な敷地を有し、死角が多いだけに、各界の著名人の御子息達を守る為、最新鋭のセキュリティが24時間導入されている。
 生徒個人に警備が付く事もそう珍しくない。
 寮内も然り、特にこの特別寮内の監視は厳しい。

 異常などあってはならないのだ。
 警備上でも、生徒個人にも。
 エレベーター内でうっかり隙を見せ、素の顔に戻り、調子に乗って情事めいた事態を引き起こす生徒もいる様だが、全て見られているのだ。 
 ひっそりと全て監視されている事が、どこへ報告されているのか。
 知る生徒は、殆どいない。
 学園で出したあらゆる結果が跳ね返って来るのは、今ではない、外界へ出た時だから。

 気づいた時には、遅いのだ。

 注目されるのは慣れていた。
 慣れる様に躾けられた、家族の教育の賜物だ。
 また、それだけ長い時間、此所で過ごして来た経験値でもあろう。
 (心頭滅却すれば火もまた涼し)
 丹田に力を込め、息を深くし、地を柔らかく踏みしめて立つ。
 何も憂えず拒まず、ありのまま受け入れる。
 過ぎ行く今は、ほんの一瞬の事。
 喜怒哀楽は、一瞬で変化して行く事。

 世界は、ちいさくて大きい。
 未だ何も知らない、何も為していない。

 四方を囲む壁の一切に頼る事なく、中央に背筋を正して立つ。
 視線は正面に向けたまま、揺るがせない。
 いっそ瞳を閉じて倒れてしまえば良いと、安楽な道を勧める悪魔の声が聞こえる。
 倒れる?
 誰が?
 この俺が?
 口角が自然に緩く上がった。
 倒れて逃げた所で楽なものか、馬鹿な。

 寧ろ、待ち受けるのは尚過酷な修羅の道。
 1度逃げたら、また此所へ戻るのにどれ程の茨の道を渡らねばならぬ事か。
 何より、血を分けた家族達が歩き続けているのに、己1人踵を返すなど有り得ない。
 安楽の中に幸福などないと、知るが故に我らは歩き続けるのだ。
 1歩でも、先へ。
 己こそ悔いない様に、ひたすらに歩くだけ。
 勝手にしろと負け犬の遠吠えを吐いて消える悪魔に、哀れさえ覚える。

 そう、時には素直に倒れ伏すのも良いだろう。
 休む時は休む。
 但し、今がその時ではないだけ、この公共の場で悦に入って悲愴ぶるのは御免被る。 
 無機質に開いた扉から、確かな足取りでエレベーターホールへ出る。
 この早朝にこのフロアで起きている者は居ない。
 眠りの空気に包まれた空間を乱さぬ様に、無心で歩いた。
 馴染みの自室へ、漸く丸1日ぶりに帰り着き、カードを取り出す前に目を見張った。

 扉の把手に、購買部の袋が括りつけてある。

 何の悪戯か嫌がらせかと、特別寮の住民達の顔を想い浮かべては流石にげんなりした。
 何らかの物体ならとにかく、生き物でも入っていたら許さない。
 直ちに怒鳴りこんでやると決意しながら、袋を手にし、想いがけない温かさにまた目を見張った。
 悪戯ではないのかと、一先ず自室へ入って扉を閉めた。
 玄関先で袋を開ける。
 特別寮の住人、誰1人として不可能な技能を持って作られた、温かい心遣いがそこに存在していた。


 『おはようございます。
 メールありがとうございました。
 バタバタしてたら夜中になってしまったので、お返事控えさせて頂きました。

 俺は何も気にしておりませんので、お構いなく…
 体育祭初心者なものですから、何かとご迷惑おかけするかと想われますが、お手柔らかにご指導願います。
 
 先輩にはいつもお世話になっておりますし?
 なかなか恩返しできませんので、せめて俺にできることをと想い、ちっちゃいお弁当作ってみました。
 ご迷惑でしたら大変申し訳ありません。
 お口に合えば幸いです。
 既にお腹いっぱいでしたら、処分するなり御自由になさって下さい。

 何かとお忙しそうですが、3度3度のお食事はきちんとお召し上がり下さいね。
 体が資本、食事が基本ですから。
 チーム優勝の為、障害物走1位の為に…!

 それでは失礼致します。 

 陽大』


 整った文字で綴られた手紙と、まだ温かい作りたての弁当、小型の魔法瓶にはスープか何か入っているのか。
 「起きんの早ぇなー…」
 ふっと微笑って、上がり口に腰かけた。
 限界だった。
 腕時計を見て、1時間と念じる。
 後1時間、眠れ。
 起きたら、動け。

 玄関ホールにたっぷり敷かれた、まさかこの時用ではないが、分厚く毛足の長いラグをベッド代わりに身を横たえる。
 瞳を閉じた王者の腕には、彼の人を温め守るが如き心遣いが、しっかりと抱えられていた。



 2011-10-31 23:59筆


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