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どのタイミングでお声をかけたらいいのか。
気づいてもらうにはどうしたらいいだろうか。
眠ってしまったことをお詫びする、メモでもそっと渡そうか。
それとも、さり気なくお仕事のお手伝いに復活するべきか。
お茶を入れ直してこようか。
いっそ、置き手紙を書いて、そうっと辞去させて頂いたほうがいいのだろうか…
まったくどうしたらいいのかわからないまま、ただ、ぼうっと見守っていることしかできなかった。
この場に根を生やしてしまったように、こちんこちんに固まったまんま動くこともできず。
呼吸すら邪魔になる、罪になるような気がして。
きっと、ものすごく大事なお電話だから。
かけがえのないひとときを、とても慈しんでおられるに間違いない。
「れな」さん、という御方との大事な時間。
大切に大切に呼ばれていた、お名前。
一般的に考えて、女性だろうか。
十八学園の外にいらっしゃるのだろう、幼馴染みさん…?
恋人、さん…?
婚約者、さん…?
いや、これだけしっかりなさっておられる柾先輩のこと、もしかしたら実はもう家庭をお持ちで、正式な入籍を迎えるのを心待ちになさっておられる状態かも知れない。
それでもおかしくない、先輩はどなたさまよりも落ち着いた、男!ってかんじの殿方だから。
それに、この表情だ。
生徒会さんや3大勢力さんの中にいらっしゃる時とはまた違う、こんなにやさしいお顔になるぐらいだから、とても親密なご関係の御方なのだろう。
………って俺は、何故ここまで先輩のことなどについて、想い巡らせているんだ。
俺には全然関係ないことなのに。
柾先輩が学園内であろうと、外であろうと、どんな生活を送られているかなんて、俺には関係ない。
大変な重責を負っていらっしゃる、どなたさまよりも辛苦を味わっておられるかも知れない、そんな雲の上の御方のプライベートなどとんでもない、一端すら正視できない。
そうだ、だからだ。
正視するのも畏れ多い存在の御方の、特別な表情を見て、電話の声が耳に入ってしまったものだから。
動揺するのは、当たり前だ。
それに、同じ空間にいて、なるべく邪魔にならないようにと存在感を消していると、どうしたってとりとめのない考えが次から次へと浮かんでくる。
俺は未熟者なのでね、無の境地にはなれませんから。
修行しておくべきだった、と。
今になって後悔する。
武芸の修行を、多少なりとも積んでおけばよかった。
未熟者の為、それは幸福なため息を吐かれて、携帯電話を愛おしく見つめ、余韻を味わっておられる最後の1秒まで、俺は息を殺して見守り続けるしかなかった。
「…うおっ、ビビったー…何だ陽大、いつの間にか起きてんじゃん。おはよ」
やがてポケットに携帯を仕舞い、視線を彷徨わせた先輩と目が合った途端、いつも通りのノリで素っ頓狂なお声を出された。
やっと、部屋中が明るく、色を取り戻したようで。
ほっと脱力しながらも、いつも通りの空気が、とても居心地悪く感じた。
「………おはようございます…?と言っても、まだ夜のようですが…どうもこんばんは」
視線を合わせるのが、妙に気まずい。
ちいさい頃から、人とお話する時は目を合わせなさいって言われてきたのだけれど…ごめんなさい、今はどうしても苦痛です。
…ごめんなさい、父さん…。
もそもそと俯いて、床を見つめた。
きれいなモスグリーンのラグは、芝生みたいに足の触りが心地いい。
下を見て、気づいた。
俺、先輩にブレザーをお返ししていないばかりか、寝こけたことについて謝罪も反省もまだ…だっ?!
「どした?風邪でも引いたか。すげー元気ねえじゃん」
いきなりアップでどばーんと視界いっぱいに入って来られた、どこからどう見たって正真正銘の美形、カッコいいで賞!と太鼓判押せるお顔!
ばかりか、俺の前髪をかき上げるように触れた手!
手が、おでこに存在している!
よくよく全体像を見れば、いつの間に忍び寄って来られたのか!
柾先輩が床に膝をついて、俺の足元などに…!
「のわぁっ!!」
咄嗟に勢いよく身を引いたら、ベッド状態になっているソファーは、無情にも俺の背を受け止めてくれず。
止めてくれたのは、先輩の空いてる片腕だった。
「あっぶね…マジで大丈夫か、陽大。熱は無えみてえだけど」
いいえ、発熱まで3秒前だと想いますけど!!
2011-09-20 22:23筆[ 398/761 ][*prev] [next#]
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