56.I love "KM".


 どうせそんなに聞こえないだろうと想って。
 「…ぢ―――んっ…」
 想いっきり、ブレザーの空間内でハナをかんだ。
 はあ………すっきり。
 すっきりしましたけれども。
 ピリピリしていた心持ちや、いろんなことに対して、哀しいながらに落ち着きましたけれども。

 気まずい。
 非常に、気まずい。
 
 しかしながら勿論、永遠にこのままでいる訳には参りません。
 このバカっ広くも温かい適正温度を有した背中の持ち主さまは、全校生徒憧れのトップアイドルさま方の更にリーダーさま、天下無敵の生徒会長さまなのだ。
 このまましらばっくれて2人羽織り生活できたら、俺の羞恥は和らぐものの、そんな生活は無論こちらから御免こうむります。
 だが、どうやってこの状況を打破するべきなのか、それが問題だ。
 俺としては、今すぐにこの場から逃げ出したい。
 全部なかったことにしたい。
 素知らぬ顔で日常へ帰りたい。

 それができず、この場に俺を足留めしているものはただひとつ、「義理人情」だ。
 前陽大たるもの、他人さまの背中を借りておいて返さないとは男がすたる、道義に反するじゃあありませんか。
 ただ、何をどう言えばこの場を難なく抜け出すことができるのか………って、んん?!
 目前の背中が、ふるふるっと震えて。
 続いて、痙攣しているように小刻みに震え出して、肩まで揺れ出したものだから、俺は焦った。
 急になにごと?!
 まさかこの御方、重大な持病でもお持ちなのでは?!
 泣いたばかりという恥も忘れて、ブレザーを取り去り、どうしましたと声をかけようとしたら。

 「……ぐぶっ……ぶはっ、やっぱ無理だし…!!お前…どんだけ強烈に洟かんで…!!ぢーんって…!!」

 ……ああ、はいはいはいはい、笑い上戸病でしたっけ……?
 何の処方もしようのない、重大な笑い上戸病ですよね!
 しかも、沸点が低いという!
 「………あー…手持ちのハナ紙だけじゃ足りそうにないなあ…これだけ面積の広いシャツだったら、こそっと拭いてもバレないだろうなあ!」
 笑いの余り折れ曲がる背中に向けて、おおきなひとり言を言ってやった。
 半分本気のね!
 アイドルさまの背中にハナタレ付き、なんて滑稽な!
 ファンの皆さまから笑われるがいい!

 想像の中でほくそ笑んでいたら、睨みつけていた背中が反転して、こちらの顔に影がかかった。
 「!」
 さっきまで、笑い転げそうになっていたくせに。
 もう真摯な瞳が、近い。
 「『ハナ紙』ってマジ昔のお母さん発言じゃん。足んねえの?拭いてやろうか?」
 「………お陰さまでもう引っこみました」
 にやりと唇を歪める、柾先輩って悪人顔だ。
 でも。
 「ん、元気そーじゃん。なら良かった」
 その瞳の奥も。
 目尻や頬を撫でてきた指も、全部、やさしかった。

 ぽんぽんっと、さっきみたいに頭を撫でられて。
 それ以上何も先輩は言わなかった。
 てっきりもっとからかわれるのかと、身構えていたのに。
 俺はきっと今、とんでもなく酷い顔をしている筈なのに。
 「行くぞ、陽大。どーせ弁当は敬愛するOB先生方にきっれーに食われちゃってんだろーから、売店寄ってかねえと。教職員の給料後で良かったぜ…大方食堂行ってるからな。然もなきゃメシ食いっぱぐれる所だった…つか5限フケよっかなー…新歓のでヤバいし、生徒会室隠ってルームサービス取るかなー…」

 俺に聞かせるともなく、ひとりごとのようにブツブツ言いながら、すたすた歩き出す背中。
 柾先輩は、前しか見ていないんだ。
 この背中を追い越すのは勿論、隣に並ぶことだって、すぐ後ろに付いて行くことだって、並大抵ではないのだろうな…
 いろいろな御方の、先輩に対する言葉を想い出して、そのどれもが見事に当たっていると実感した。
 けれでも俺は、「男のロマン」同盟にひっそりと所属しているんですから…!
 「あのっ…!」
 早足ですぐに追いついて、ぐるっと前へ回り込んだ。

 「あ?」
 いちいち背が高くて、視線を合わせてくださろうとする度、俺の顔に影がかかるのが癪に触るけれど我慢です。
 「……これ…」
 今の今まで腕に抱えていたブレザーを、そっと手渡した。
 「あぁ」
 「………」
 「陽大?」
 「………」
 「早く行かねえと、教職員専用売店でも品切れするぞ。俺ぁ後でまた何か食うからいーけど」
 ぽんぽんっと、肩に触れる手の温もりに、勇気づけられるように顔を上げた。

 「………背中」
 「背中?あ、お前…マジで何か付けたとか?ブレザー着たらわかんねえから別にいーけどさ」
 「違いますー!何も付けてませんよ…ただ、ちょっと…その…握っちゃったので、皺になってしまいました…すみません」
 「あぁ、んなの気にすんな」
 「すみません」
 「いいっての」
 「すみません」
 「…陽大?」
 「ご迷惑お掛けしてすみませんでした。でも、すごく、助かりました…ありがとうございます」
 精一杯の言葉で、精一杯頭を下げたら、バカ笑いじゃない微笑が返って来た。
 流石はアイドルさまだ。

 「お詫びとお礼にもなりませんが、明後日のお弁当シフト、俺に作れる範囲で先輩のお好きなものを用意しますので、ご意見ご要望等ございましたら、お手柔らかに前日の夜9時迄にお寄せ下さい」
 「ははっ、何だそりゃ!へりくだんなっつーの。俺がお前の作るものにいつも不満タラタラみてえじゃん」
 「………先輩は食に関していろいろご存知のご様子なので、緊張するんですよ………」
 「暗っ!お前なー食に関して気難しいお客様なんて果てしなく存在するんだぜ?今からそんなんでどうするよ。しかも俺みてえに善良な食客にビビってんのかー?」
 「…ぜんりょう…?っふっ…」
 「善良だろーが。少なくとも陽大を応援してやってんじゃん」
 「いひゃいれす!」
 果たして応援してくださっている御方が、俺の頬を引っ張ったりするんでしょうか?

 「ま、折角なんでリクエストさせて頂きましょーね」
 「どうぞお好きなように?」
 「身構えんなって。苛めてるみてえだろ。そうだなー、やっぱおにぎりだな」
 「……はい?」
 「フツーの塩むすびと卵焼き。あ、でもきのこごはんと豆ごはんのもいーけど。いや、やっぱ塩むすびにする。んで、味噌汁ね」
 「……はい?」
 「何だよ、お好きな様にっつったのは陽大だろ」
 「そうですけど…塩むすび???」
 どういうことですか。
 からかわれているってことですか?

 「米好きな家系なんだよ。何食っても締めは米と味噌汁、昔っからずっと超!米食派の血縁なもんで」
 「なっ…!それには大いに賛同しますが、じゃあ逆にハードル高いじゃないですか…!」
 「何で。普通でいーじゃん。いつも通りで」
 「そんな気軽に…!シンプルが1番難しいんですよ?!」
 「ソウダヨネー」
 バリスタ並みのコーヒーを入れる腕を持ち、根っから洋食派というお顔のくせに、なんという裏切り…!
 好物は米?!
 なんということでしょう!!

 そんな会話を交わしながら、表面上は平静を保ちつつどこか落ち着かない心持ちで、柾先輩と売店とやらへ向かったのでありました。



 2011--04-28 23:58筆


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