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何か楽しいこと…楽しいことを考えなくちゃ。
忘れるんだ。
何も気にしないでいい。
とにかく、楽しいことを。
必死に思考を巡らせていた俺の腕を、誰かがふいに強く掴んで、その勢いで身体が持ち上がった。
「忘れてた!陽大、飲み物買うのに付き合え。職員棟には職員限定プレミア自販機があるしな。お前そういうの好きだろ?よし、俺が案内してやろう。来い」
は?
何が何だかわからない内に、保健室の外へ連れ出され。
ずるずると引きずられるままに歩いていたら。
よくわからない場所、奥まった階段下で立ち止まられ。
意味がわからない。
食事中に急に立ち上がって、飲み物ならまかべ先生が焙じ茶を用意してくださったのに、わけのわからないことを言って、ご自分1人で来ればいいものを俺を道連れにしたばかりか、立ち止まったこの場所には自販機の影も形もないという顛末。
意味がわからない。
「……あの…?」
苛立ちにも似た感情で、何やら辺りの様子をうかがっている、柾先輩の背中へ声をかけた。
「此所でいっか…」とかなんとか、呟いていらっしゃる背中が、急にぐるっとこちらを振り返った。
想わぬ近距離、身長差っぷりに、ますます神経がささくれ立ち、俺は無遠慮に後ずさった。
「一体、何の真似で、」
糾弾は、深い湖水のような眼差しに、吸いこまれて消えた。
「泣け」
え……?
「……柾先輩…?意味がわかり、」
「陽大、『何か』あっただろ」
心臓を片手で容易く掴まれたかのように、ぎくりと寒気が走った。
澄んだ瞳に、まっすぐに射抜かれた。
逸らしたいのに、あまりにきれいで強い瞳だから、逸らせない。
この人の目を見たら危険だって、俺はわかっていた筈なのに。
どうして。
さっきは、大笑いして何も気にしていらっしゃらない様子だった…騙したつもりで、俺が騙されていたのだろうか?
「泣いとけ。陽大、何かいっぱいいっぱいになってるだろ。此所なら誰も来ねえ。俺も後ろ向いてるし、ちょっとお前、気が済むまで泣いとけ」
そんな…
「お、俺は別に何も…」
「何もない奴の持ち物に、複数の異なった足形なんかつくのかよ」
静かで落ち着いた、鋭く低い一声に、抜き身の一撃を受けるとはこういうことなのだろうかと、目を見張るしかなかった。
「別に何も聞かねえから…とにかく今は泣いとけ」
「……お、俺は…!俺だって、男だから…人前で泣いたりなんかしません、俺はそんな、女の子みたいな真似は、」
「男とか女とか関係ねえだろ。男だって泣きたい時がある。女だって顔上げてプライド護りたい時がある。人間なら一緒じゃねえのか。
感情を持つ事は誰にでも自由に許されてる…抑圧し過ぎたら後で歪みが必ず来る。適度に解放してやんねえと、陽大、これからもっと辛くなるぞ…?
弱くて良い、誰だって弱ぇ。弱さから目を逸らさない奴が本当に強くなる。
感情は1人で向き合うもんだけど、こんな寮生活だったら、1人になる時間すらろくに持てねえ。美山と同室だったら尚更だろ。奴がどうこうじゃねえ、毎日顔合わせる奴が隣に居たら、部屋に居ようが居まいがどうしても遠慮する。だから、今泣いとけ。
誰も来ねえ様に見張っとくし…背中、貸してやる」
ばさっと、頭から暖かい何かがかけられた。
ふわりと香る、清冽で甘やかな香り…それは、柾先輩のブレザーだった。
顔を上げれば、広く、まっすぐ伸びた背中しか見えなくて。
どうして、先輩がこんな配慮をしてくださっているのか。
なんにもわからないまま、もう、とっくに限界だった。
まだ体温が残ったブレザーを、すっぽりかぶったら、外の世界といきなり遮断されて、余計に心の強張りがほどけた。
「……ふっ……」
俺は、とても贅沢で、そのままではどうしても心許なくて。
すぐ目の前の背中にすがるように、ほんのすこしだけ、もたれさせてもらって。
ブレザーで作られた、温かい闇の中で、ただひたすらに泣いた。
2011-04-22 23:23筆[ 306/761 ][*prev] [next#]
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